3日目の朝で〜すお天気は曇りってとこかなぁ・・・・
昨日は一人でコンビニで買ってきた、ビールとつまみを食べながらテレビをみて過ごしました。
一人になんかちょっと不安でなかなか眠ることができませんでした・・・・しかし結構朝の目覚めはバッチリ寝れないといいながら以外としっかり寝たのかも
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この門司港ホテルもいいホテルですね・・・・窓から見える夜景もステキでした。
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前方に、旧三井倶楽部の建物も見えます。
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9時チェックアウト!手荷物はホテルに預ってもらいさぁ〜今日最終日の目的地へ向かいましょう〜
門司港ホテルさんお世話になりました
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あまり暑くもなくいい感じです。
ホテル前にある旧大阪商船の建物。昨日は薄暗かったけれど朝はこんな感じです。
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ちょっと異国みたいでしょ・・・
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1階は展示スペースになっています。
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旧門司三井倶楽部。
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林芙美子も門司出身なんだね・・・
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旧門司税関。
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さぁ〜ホテルの周りを1周してマリンゲートもじへ行きましょう〜
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また連絡船に乗って今日は巌流島へ行きます。
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1時間に2本のペースで運行されています。料金は往復800円のところ今の時期半額の400円になってました。
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さぁ〜わかば号に乗船〜
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お客さんは私を含めて2名。乗船中アナウンスが流れて巌流島の説明をしてくれます。巌流島は無人島であること、トイレはありますが、売店その他、人がいないので、十分お気をつけくださいとのこと・・・・
1時間に2本連絡船がくるけれど、万が一事故があったら無人島にとりのこされてしまうのよね・・・
一抹の不安をいだきながら前方の乗客のおじさんを眺めてみた・・・おじさん船のなかから一生懸命写真をとっていた・・・この人もひとりで来るくらいなんだから好きなんだろうなぁ・・・と思った・・・いやぁ〜私も同じようなものか・・
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ここは関門峡。かつて龍馬も幕末、幕府を相手に高杉晋作らと戦った場所なのである・・・・
大砲が飛び交ったこの海峡。この波に揺られながら龍馬の気持ちを想像するとまた一段と興奮してくるなぁ・・
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さぁ〜着いた。巌流島上陸だぁ〜おじさん先にさっさと歩いて行った。
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巌流島の案内板。現在の巌流島は昔の7倍は敷地面積があるそうです。
昔は案内板の濃く書かれた部分しかなかったようだ。観光地として埋め立て整備して現在のような形になったよう・・・もとの形が船に似ていたので、別名舟島とも呼ばれている。
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そして龍馬のゆかりの地でもある巌流島だ。
お龍が明治32年(1899)に語った思い出話。「千里駒後日譚拾遺せんりのこまごじつたんしゅうい」
「・・すぐ向うに巌流島といって仇討ちの名高い島があるのです。春は桜が咲いて綺麗でしたから、皆なと花見に行きました。ある晩龍馬と2人でこっそりと小舟に乗り、島へ上がって煙火はなびを挙げました・・」
慶応三年(1867)龍馬とお龍が本陣伊藤邸に滞在していた頃の話。(お龍は「長府にいた時分」と語っている。)
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龍馬がお龍ときた場所がホントかうそかは定かではありませんが、とりあえず本当であったと思いながら歩いてみましょう〜
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きれいに整備されて遊歩道からの眺めも最高です。この巌流島は門司(福岡)と下関(山口)のどちらに属するのでしょうか・・・・その答えは下関であります。ちょっと泳ぎが得意な人だったら泳いで渡れちゃう距離のこの島。
龍馬が来たころも小舟に乗って二人無人島に花火を上げにきたなんてちょっとロマンチックじゃな〜い
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巌流島の名前の発祥の宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の場はさらに有名ですね。
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歩くこと5分!あった〜宮本武蔵と佐々木小次郎が戦ってるぞ〜
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宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の像です。
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かっこいいぜよ〜〜〜関門峡をバックに戦う武蔵と小次郎。
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この島で、慶長17(1612)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになりました。
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巌流島にたくさん咲いているこの植物はなんだ??アロエのようで南国風〜
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武蔵と小次郎のお話しが書いてあります。
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島を1周しても15分くらいでしょうか・・・キャンプ場のような場所もありました。
この島で出会った人はさっき一緒に船に乗ってきた人以外に家族づれ2組でした。この島の最終便に乗り遅れないようにしないとね。。。。
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さぁ〜帰りの船待ち。門司港行きに乗って帰ります〜
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そして門司港に着いてから潮風号というトロッコ列車にのって関門トンネル入り口まで行きます。
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途中のトンネルの中で天井がイルミネーションされます。
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トロッコ列車も5分ほどで着き、関門橋の真下まで着ました。
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関門トンネル人道まで海岸線を歩いて行きます。
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この海岸線の景色がまたきれいなんです。関門橋の下を大きな船小さな船が渡って行きます。
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雄大な関門橋。
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西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります、また、瀬戸内海の入口に位置する地理条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史を刻む舞台となっています。
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関門トンネル人道口につきました。エレベーターで地下50メートル下に行きます。
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地下はヒヤッとするねぇ〜
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関門トンネルは昭和の戦争前から工事がはじまり途中戦争で中断したものの、昭和42年に開通。そんな古い歴史を持っています。老朽がひどくたびたび補修工事しているようです。
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さぁ〜歩いてみましょう〜この人道の上に自動車道が走っているせいか、天井でゴーゴー音がします。それとこころなしか、揺れているように感じます。それと脇から水がチョロチョロ流れている音がします。
ちょっと怖いので小走りになってしまいました。
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そして福岡県と山口県の境界にやってきました。ここは水のなかの境界です。
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歩くことはや歩きで7・8分。山口側に出られました。
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出たすぐのところにみもすも川公園、壇ノ浦の古戦場跡があります。
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壇ノ浦だよ〜〜
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寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。最期を覚悟した平知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。なお、この戦いにおいて義経は平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれています。
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大河ドラマ「義経」の撮影の記念の碑もありました。タッキーの手形だ。
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壇ノ浦の戦いにより平治が滅亡鎌倉時代の武家社会が成立していくんだよね。
詳しくは壇ノ浦の戦い(ウェキより)
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そしてとなりに馬関開港100年記念の碑。
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この壇ノ浦は歴史上様々な出来事がありました。馬関(下関)戦争がそのひとつです。
下関戦争は、1858年(安政5年)に江戸幕府が欧米列強(米 英 仏 蘭 露)と異勅で安政の不平等条約を締結してしまったことに対する抗議活動であった攘夷運動(「即今攘夷」「破約攘夷」)が、西南雄藩の長州藩において1863年(文久3年)5月10日 (旧暦)(実際の砲撃開始は翌日にずれて11日)から1864年(元治元年)8月7日 (旧暦)にかけて欧米列強に対する攘夷戦争という正攻法の形で表面化したものである。
長州藩は孝明朝廷の叡慮・徳川幕府による攘夷の勅命の奉勅・徳川幕府からの幕命(文久3年(1863年)5月10日 (旧暦)を攘夷実行の日とする)を受け、関門海峡を通過する外国船への砲撃を実施した。戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、米英仏蘭に対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。
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前段: 1863年(文久3年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた。約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。
後段: 1864年(元治元年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は、長州に対する懲戒的報復措置をとることを決定し、仏蘭米の三国に参加を呼びかけて、艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は8月5日〜7日に馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後、欧米列強に対する武力での「攘夷」を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化してゆくことに積極的になる。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、1866年(慶応2年)1月21日 (旧暦)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。
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その時代いかに長州が勢いに乗っていたかがうかがうことができる・・・それによって4カ国に負けてしまうけれども、その魂が倒幕へと進む大きな原動力になるんだよね・・・すばらしき長州よ〜
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大きく歴史が動いた壇ノ浦。ここも忘れないよう目に焼き付けたよ・・・
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3日目最終目的地高杉晋作功山寺「長府へ」は次回です。
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