5月13日靖国神社、遊就館の帰りせっかく来たのだから、近場を散策して帰ろう〜
靖国を出てすぐ皇居のお堀牛ヶ淵方面を歩く。
歩道橋の上から銅像が見える。ちかくに行ってみると、品川弥二郎と書かれてある。
品川弥二郎といえば現在やっている大河ドラマ「花燃ゆ」にも登場している長州藩の志士ですね。
上野の西郷隆盛像や皇居前の楠木正成像の制作で知られる高村光雲の監督。原型作者は木山白雲、鋳造者は平塚駒次郎、建設者は西郷従道他2845名とされています。建設年月日は不明です。

品川弥二郎は長門の国、松木船津の長州藩足軽、品川弥市右衛門の長男として生まれました。15歳で松下村塾に入門。その後、長州藩士として尊皇攘夷運動で活躍。京都で倒幕運動に奔走しました。

維新後、明治3年(1870)戦争視察の命令で欧州に派遣。ついで留学を希望し、ロンドンに留まりました。その後も軍事を学ぶため兵部省からドイツに派遣され、次第に政治や経済に注目するようになりました。

駐独公使、農商務大輔(次官)などを歴任。明治17年(1884)子爵に。明治24年(1891)年第一次松方内閣の内務大臣となりました。松方の命で強力な選挙干渉を行い引責辞任を余儀なくされました。

晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。
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そしてそこから程近い場所に大山巌の銅像があります。
大山巌といえば西郷さんの従兄弟で日清、日露戦争で勝利した立役者ですね。
第二次世界大戦直後、多くの軍人の銅像が撤去される中、大山巌の銅像だけは撤去を免れた。日本を統治したマッカーサー元帥が、自室に大山巌の肖像画を飾っていたほどの大山ファンだったからだと言われている。
西郷さんが生きていたらこんな人物だったでしょう〜やはりどこかがっちりした体型が西郷さんを思わせます。
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西の丸公園の中を歩きます。
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田安門
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田安門からお堀を望む。
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【国指定重要文化財】
大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれています。田安門は、寛永13年(1636)に建てられたと考えられ、昭和38年には解体修理が行われました。北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。高麗門の扉の釣金具に製作に携わったと考えられる職人の名文があります。
田安門の辺りは,古くは「田安口」または「飯田口」ともいい,上州方面への道が通じていたといわれています。
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門名の由来は、門内には田安台といって,はじめ百姓地で田安大明神があったので門名に称としたといわれています。江戸城造営後は北丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となりました。有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にありました。
享保15年(1730)八代将軍吉宗の第二子宗武は,ここに一家を創立して田安家を興しました。宗武は、賀茂真淵に師事し、国学の造形には深いものがありした。宗武の子松平定信(白河楽翁)はここで生まれました。
現在田安門がある北の丸公園には,田安門から南北をつらぬくように西側一帯を田安家,東側一帯を清水家が所有していました。
現在は田安門から北の丸公園へ常時出入りできます。
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日本武道館
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北の丸公園内
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池もあります。
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そして東京国立近代美術館工芸館 旧近衛師団司令部庁舎
工芸館の建物は、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用したものです。この建物は、明治43(1910)年3月、陸軍技師田村鎮(やすし)の設計により、近衛師団司令部庁舎として建築されました。2階建煉瓦造で、正面中央の玄関部に小さな八角形の塔屋をのせ、両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式の建物です。丸の内や霞ヶ関の明治洋風煉瓦造の建物が急速に消滅していくなかで、官庁建築の旧規をよく残しており、日本人技術者が設計した現存する数少ない遺構として重要な文化財です。
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東京駅と同じ赤レンガ造りです。明治のにおいがしてきます。
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さぁ〜夕方になりました。帰りはお堀をあるいて竹橋駅から電車に乗り帰って来ました。
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