6月10日梅雨の晴れ間を狙って今日は思いつきプチ旅に行ってきました〜
前日、明日の天気予報を見ているとなんと晴れマーク!日帰りでここまで行けるんだろうか迷ったが、決行〜
今日はたくさんの電車を乗りこなして出かけたいと思います。
まずは7:16発、新横浜より新幹線こだまに乗ります。
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700系 熱海まで各駅に止まります。
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熱海着。ここから7:55発JR伊東線に乗り換え。伊豆急下田まで1時間25分ほど。
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JR伊東線は初めて乗ります。向かい合う席もあり、ローカルを感じます。
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いい天気〜気持ちいいぃ〜海が見えてきました〜
1時間20分の乗車も飽きさせない景色が続きます。
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海沿いを走る電車の旅も心の洗濯です。
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伊東から伊豆急に変わります。伊豆高原で前3両だけが下田まで行きます。
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伊豆急下田駅到着!9:20分
ホームには龍馬さんがお出迎えか・・・気分は一気に高まります〜
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10:00からの観光協会のボランティアガイドさんの予約をして。帰りのキップを買って。駅をうろうろ・・
すると京都に行ったとき一緒に写真を撮った下田龍馬会の男性を見かけました。
その人は観光客が駅につくと待っていたのか下田のガイドをなさっているようでした。下田に尽力している人なのですね。
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常夏の島のよう〜
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さすが開国のまち、黒船もあります。
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10:00下田観光に出発〜ボランティアガイドさん1名他の観光客私を入れて3名。約2時間かけて下田の町を歩きます。
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資料片手にもう定年をずいぶん過ぎたおじさんがガイドしてくれます。いやぁ〜それにしても細かい下田の歴史の話しをしてくれます。さすがここでしか聞けない話しもありました。歴史好きには最高です。
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伊豆急下田駅から南へ2分程歩くと、稲田寺(とうでんじ)というお寺があります。このお寺には、下田の歴史に登場するお吉(おきち)という女性の恋人である鶴松という人のお墓があります。
お吉は当時江戸幕府に命じられ、下田に黒船で来訪していたアメリカの総領事、ハリスに仕えた芸妓さん。仕えた期間は3日間ほどと言われていますが、当時の人たちからは唐人(とうじん)として偏見の目と罵声を浴びせられたようです。お吉は苦悩の生涯を送って、51歳の時に下田の稲生川にて溺死してしまった悲劇の女性です。
「唐人お吉」。映画や本にもなっているので、ご存知の方も多いのでは?
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また稲田寺には、下田市の指定文化財である阿弥陀如来坐像も安置されています。
像高208cmもある大きな仏像で、当初は漆箔が施されて金色に輝いていたと言われています。やや形式化した造形から平安時代末期の作品と考えられています
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そして安政の大地震で起きた津波によって犠牲になったひとの供養塔「つなみ塚」があります。
安政の大津波では下田の港に停泊していたアメリカ艦隊(開港を迫っていたいわゆる黒船なども)陸に打ち上げられたそうです。
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唐人お吉の夫鶴松のお墓。
お吉は17才で下田奉行所支配頭取・伊差新次郎に口説かれて異人(ハリス)の侍妾(じしょう)となり、大きく人生が変わりました。ハリスに仕えた期間は、ほんの僅かでしたが、お吉は、「唐人」とののしられ横浜に流れ、後に下田へ戻って小料理屋「安直楼」を開きましたが、酒に溺れて倒産。明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。この事件は、幕末開国に伴う一悲話として、小説にもなり、今では舞台での上演などもされています。
本名:斉藤きち
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以下「宝福寺書」より抜粋。お吉の説明文です。
 お吉は本名を「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。4歳のとき家族が下田に移り住み、14歳で芸妓(げいこ)となりました。新内明烏(しんないあけがらす)のお吉とうたわれるほどの評判と美貌でしたが、それが奉行所の目にとまるとこととなり、17歳の時、法外な年俸と引替に心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ侍妾(じしょう)として奉公にあがることとなります。その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業(かみゆいぎょう)を始めますが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業しますが、2年後に廃業しています。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」(しゃくじょうかんに)を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っています。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているようです。
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そして次は宝福寺。龍馬の顔が見えてきました。ここはわたしも知っていました。
土佐藩主山内容堂と勝海舟謁見の寺。(龍馬が脱藩の罪を解かれた寺)
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文久三年(1863年)一月十五日、山内容堂は宝福寺に滞在。
当寺を訪れた勝海舟の請を容れ、坂本龍馬の脱藩を免罪。
宝福寺は龍馬の維新回天の飛翔の原点となった。
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文久3年龍馬29歳。龍馬が土佐藩を脱藩して江戸に出て勝海舟のもとで海軍操練所の塾頭をしていた頃の話しである。
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他にも
1.永禄2年(1559)11月、信長の圧迫をのがれ、本願寺第11代顕如並に法孫釈了善、真言を改め開基。
2.嘉永7年(1854)日米和親交渉にあたり、日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれた。
3.唐人お吉菩提寺、お吉記念館(西ドイツ、英国に博物館として登録されている)
このような歴史があるお寺です。
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ソテツの木が南国らしい。
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福山さん似の龍馬の像
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そして宝福寺お隣の下田文化会館(下田小学校跡)下田小学校はしろなまこ壁の小学校だったそうです。
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ここにもなまこ壁が・・・
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そしてその先、吉田松陰拘禁の跡。松陰先生が黒船への密航失敗拘禁された場所です。
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「世の人はよしあしごとも いはばいへ 私が賤が誠は神ぞ知るらん」 松陰先生が詠んだ句です。
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欠乏所跡。日米和親条約により「航海上必要な欠乏品」を供給したところです。現在のスーパーみたいなところだそうです。
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なまこ壁が美しい。
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現在はカフェになっています。
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さて次は了仙寺へ。日米和親条約の下田条約の調印が行われた寺です
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★ペリー来航からの流れ
ペリー日本来航
1852年ペリーは当時のアメリカ大統領フィルモアから東インド艦隊司令長官を命じられ、同年11月24日アメリカ東海岸ノーフォークを出航し、日本に向かいます。当時アメリカではカリフォルニアに金鉱が発見され、西海岸が開拓され、さらに捕鯨業がさかんになってきたため、太平洋の重要性が高まっていました。北太平洋の要衝に位置する日本との国交はアメリカにとって欠かすことのできないことでした。ペリーは当初、12隻の大艦隊で日本に圧力をかけるつもりでした。ところが、故障する船や予定の立たない船が続出し、さらに旗艦として考えていた最新鋭の蒸気船は完成が遅れ、出航に間に合わなくなってしまいました。ペリーは仕方なく海軍最初期の蒸気船ミシシッピー号に乗り、日本に向かいました。アメリカ東海岸から大西洋を南下、アフリカの喜望峰を回り、インド沖から東南アジアを通過し、中国広東に寄港し、蒸気船2隻・帆船2隻からなる艦隊を編成し、日本に向かいました。そして途中琉球・小笠原諸島を経て江戸湾三浦半島の浦賀沖に来航したのは1853年7月8日のことでした。
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日米和親条約
久里浜で日本側に日本に開国を提唱するアメリカ大統領の親書を渡したペリーは翌年の再来航を約束して、いったん中国上海に向かいます。そして再び浦賀に来航したのが、1854年の1月。そして3月31日(嘉永7年3月3日)には日米和親条約が横浜で締結されます。その中で決まったのが、下田と函館(当時は箱館)の開港(箱館は翌年の開港)とアメリカ船の日本における物資の確保とアメリカ人の安全の保障などです。
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ペリー下田来航
日米和親条約により開港された下田には、ペリー艦隊の船が続々と入港してきました。ペリーを初めとするアメリカ人たちは下田湾の美しい風景に簡単の声を上げたと言われています。時は春、海から見た桜の満開の下田港はさぞきれいだったことでしょう。またペリーは下田の町がきれいに整備されているのに驚きました。特にペリーが感心したのは、下水が川に直接流れ込まないように川の脇に下水溝が作られていたことでした。日本でしかもこのように小さな町で、西洋の中心都市にあるような下水溝の設備があるなど、彼らの常識では考えられないことでした。
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●日米下田条約と了仙寺
横浜で締結した日米和親条約では細かい点がほとんど決められていなかったため、下田に上陸したペリーは早速日本側と交渉に入りました。その場所となったのが了仙寺です。十日間にわたる協議の結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)、日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)が結ばれました。この中で、アメリカ人は下田の街中を自由に歩く権利、すなわち「遊歩権」を与えられました。これは一種の交流権ともいえるもので、黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験しました。
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そしてすぐお隣にある長楽寺です。これは良く知られていませんがロシアも日本に開国を要求していたのですね。日露和親条約の調印をしたお寺です。
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ロシアの全権代表はプチャーチン。
千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする。
樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする。ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)ロシア領事を日本に駐在させる。裁判権は双務に規定する。
片務的最恵国待遇。このような条約が交わされました。
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そして情緒あふれるなまこ壁の町並みを歩きます。
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そしてあこがれのペリーロードへ。
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あじさいがきれいに咲いています。
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昔の建物がきちんと残されています。
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これもステキですねぇ。
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そして海がもうすぐそこに。大砲の記念碑もあります。
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下田港に出ました。
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寝姿山もきれいに見えます。
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これがペリー上陸の碑。
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日本最初の開港地
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さぁ〜来た道を戻ります。下田の町並みのシンボルなまこ壁の家が目に付きます。
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旧澤村邸
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下田はいたるところからお湯が湧き出ています。
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ペリーロードを逆戻り。
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静かで本当にいい町並みです。
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よるにはガス灯にあかりがついてすてきでしょうね。
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そして了仙寺宝物館 黒船美術館に行ってみましょう。
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日本人が描いた絵巻物や肉筆画,かわら版、古地図など3000点をこえる黒船、開国に関するコレクション所蔵しています。
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そして開国博物館にも行ってみました。ここにもたくさんの下田の歴史が残されていました。大満足!
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ニューサマーオレンジがおいしそうです。
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松陰先生が泊まった宿のようです。
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そしてお昼もとっくに過ぎて下田駅前の猟師料理のお店に入りました。
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やぁ〜今日はいい天気に恵まれて絶好の散策日和で、いい汗かきました。まずはビールで一杯〜
うん〜んまい
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昼のランチを注文。ここにきたからには金目鯛の煮付けを食べなくっちゃ〜
黄色いごはんはくちなしで色づけしためでたいご飯らしいです。
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最高〜猟師の煮付けです・・・
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大満足な下田プチ旅行でした。
4時半ごろのスーパービュー踊り子号で帰ります。
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下田いいところでした。まだ回りきれないところがたくさんあります。また絶対来ようと思います。
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パノラマビューの列車です。ガラガラで貸切状態。
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車窓からの眺めもホント癒されます〜
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熱海から東海道線で小田原まで、小田原からロマンスカーで町田。
た〜くさん電車に乗った日帰り旅行でした。楽しかったよぉ
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