12月10日(木)雨
昨夜はよく眠れました、朝食ブッフェをいただき、ホテルを8:00にチェックアウト。
朝から雨模様・・・・覚悟していたが、すこしでも雨があがってほしいと願う。
今日はまず出雲大社へ行きます。1時間ほどバスに揺られ到着、まだ参拝客がだれもいない。
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だんだん雨足が強くなってきます。
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縁結びの神・福の神として名高い『出雲大社』は、日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていました。
主祭神は大国様として馴染みの深い『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』で、「古事記」に記される国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりといわれています。
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大国主大神が祀られている本殿は延享の造営(1744)で建立されたもので、大社造で国宝に指定されています。神社建築の中では日本一を誇り、高さは約24m、厚い桧皮葺きの屋根の棟の上には長さ7.9mの二組の千木が交差しています。千木の上方にあいている小さな穴は、実際は大人一人がくぐり抜けられるほどの大きさで、本殿の大きさを実感できます。本殿に祀られる御神体は西向きで稲佐の浜の方角を向いておられ、本殿の正面から参拝すると、神様の横顔を拝んでいる事になります。
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古代の本殿はこのように高い柱でできた建物だったようで、柱のあとが発掘されてわかったようです。
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柱の実物大はこんなに大きい。
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現在でも柱のあとが赤い石で記されている。
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檜皮葺の模型
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大きな注連縄
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ここでは二拝四拍手一拝。よき幸にご縁がありますようお参りしました。そしてYちゃんに厄除けのお守りを買いました。来年無事に日本に帰ってこられますようにと・・・
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出雲大社の住職千家国麿さんと高円宮典子さんが住んでいらしゃる館ですね。
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約60分の参拝と拝観でしたが十分だったと思います。雨も強くなってきました。
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ありました!彩雲堂の若草という和菓子。
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そして次は瀬戸内海側に向かいます。途中、世羅に寄りました。世羅といえば高校駅伝で有名な世羅高校があるところです。
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世羅の陸上グッズも売っていました。
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そして2時間ほどで尾道に着きました。尾道初めて来ました。
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瀬戸内海に面して山が迫っているため、傾斜に家がたくさん建っています。珍しいお城を見つけました。断崖に立っているよ〜
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尾道での自由行動は90分。千光寺公園へ行きたかったのですが、ロープウェイが休業しているらしく歩いていくには時間がかかりすぎるのでやめて古寺めぐりをしようと思います。
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千光寺公園に向かう坂にたくさんのお寺があるのです。
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長崎のような坂がたくさんあり途中途中海を眺められるのでこれは晴れた日に来たら最高だと思います。
まずは持光寺へ・・
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坂は迷路のようになってしまいそう・・
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道標があるとほっとします。昔のままの家もたくさんあり、見ていくだけで楽しい。
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さすが映画のロケ地尾道。最高のロケーションだわ。雨がホント残念
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光明寺。
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お地蔵さん
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宅急便のお兄さんも荷物を背負って坂の階段を登る。
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次々に探さないと時間がなくなります。そして雨が降っているので撮影が厳しくなります。
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この町にあこがれてお店を出す若者も多いのでしょう〜すてきな雑貨やさんやアートなお店もありました。
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登ったり下ったり汗をかきます。
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そして天寧寺にたどり着きました。
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ここの五百羅漢像は見ておかなくっちゃね。中は撮影できませんでしたが、威風を醸し出す五百の羅漢像がこちらを向いている姿は圧巻でした。
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90分という時間の早いこと・・・他におのみち映画資料館、文学館などに行った人がいたようですが、90分の間にここを見て歩くにはどれも時間が足りないように思えました。帰り尾道本通り商店街を歩いて帰ります。
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レトロな建物が目を引きます。
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林芙美子記念館
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林芙美子像
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映画スターの足型ストリート
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時間ぎりぎり〜まだまだ見たりない〜レトロなお店がたくさん。尾道ラーメンも食べたかったなぁ・・・
物足りなさを感じながら最後の観光地「鞆の浦」に向かいます。
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福山駅から南へ14kmの海岸沿いに位置する鞆の浦。古くから潮待ち風待ちの港として万葉集にも詠われた名勝で、日本で最初に国立公園として指定された瀬戸内海国立公園のひとつです。晴天の波穏やかな瀬戸の海に仙酔島や弁天島が霞み浮かぶのどかな風景は心洗われます。江戸時代には北前港としても栄え、朝鮮通信使が度々寄港。真言宗福禅寺が迎賓の場所として使われました。本堂隣の「対潮楼」は元禄年間(1688〜1704)に建てられたもので、客殿として朝鮮からの賓客の宿舎として使われました。座敷からは海と島が一望でき、通信使の李邦彦が「日東第一景勝」と賞賛しました。国内外との交易で栄えた港で歴史に名高い旧跡や遺構も多く残されています。
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平成いろは丸船乗り場。ここから仙酔島までいろは丸に乗っていけるそうです。やはり今回は時間がなくていけませんが・・
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そしてここから現地ガイドさんについて鞆の浦の町を巡ります。
最初にこの岩壁の説明を受けたのですが、ここの上が対潮楼だったとは・・対潮楼は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったようです。あとで行くのかと思いきやはしょられた・・・
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かわいい猫のバス停。
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現在の鞆の浦の波止の景観は、江戸時代から幾度となく造営を繰り返されて出来あがったものです。古くから鞆港は、東側の大可島や西側の明神岬、それに南側の玉津島などの自然の波よけのおかげで、天然の良港として栄えていました。しかし、近世初頭に大可島を陸続きにしたため、港の海底に土砂が堆積して浅くなったり、また台風は自然の波止ではさすがに防ぎきれずに、船舶が損傷を受けたりして、いよいよ波止場の造営の必要が出てきたのです。
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龍馬もみたこの鞆の浦の港
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鞆港西側の雁木の南端に立つ常夜燈(とうろどう=燈籠塔)は、何と言っても鞆の浦の1番のシンボルです。「安政六年己未七月」(1859年)に建造されました。南に弓状の港を有する鞆の浦は多島海の天然の良港で、豊後・紀伊水道がぶつかる瀬戸内海の中央部に位置し、“潮待ちの港”として栄えました。
1826年、オランダ商館の医師・シーボルトは『江戸参府紀行』の中で「活気に溢れた町」と記しています。その港町の海上安全を支えたのが、この常夜燈なのです。
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みごとな雁木。潮の干満に関らず船着けできる石階段、それが雁木です。満潮時には最上段が岸壁となり、干潮時には最下段が荷揚げ場となります。
雁が飛ぶさまに似ていることから「雁木」と呼ばれるようになったんですね。最上段には明治から昭和期に作られた円柱形の船繋石(ふなつなぎいし)が等間隔で並んでいます。全国でも類のない鞆の浦の雁木の雄大さ。
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木が腐らないように焼きをいれている。白い壁との色彩がきれいである。
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雨に濡れた石畳がとってもすてきです。
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太田家住宅は、1991(平成3)年に国の重要文化財指定を受けました。瀬戸内海を代表する往時の商家の佇まいを今に伝える、歴史的価値のある建造物群です。主屋や炊事場、保命酒蔵が見事に保存されていて、玄関には杉玉掛けもあり、造り酒屋の構えをよく残しています。これらの建物群は江戸時代中期から後期にかけて、「旧保命酒屋」中村家が拡張・増築していったものですが、明治に入って廻船業を営んでいた太田家に継承され、今日に至っています。
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幕末の政変によって都落ちした三条実美ら尊王攘夷派の公卿7人が、鞆に立ち寄った際に一時の憩いを得たのが、この太田家住宅(旧保命酒屋)でした。公卿らは保命酒に陶酔し、その美酒を褒め称える歌を残しています。
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言わずと知れた人気アニメーション映画『崖の上のポニョ』。制作側は明言していませんが、どうやら「ポニョは鞆の浦が舞台なのでは?」と囁かれているようです。というのも、社員旅行で鞆の浦を訪れた宮崎駿監督が、鞆の浦を気に入り再訪。長期間にわたる滞在中、宿泊施設や鞆の町を歩きながらポニョの構想を練った…といわれているからです。ポニョの作中には、よく見るとどこか鞆の浦を描いたようなシーンを見つけることができます。また、鞆の浦には宮崎監督が設計に携わった宿や、実際に立ち寄ったパン屋さんなどがあります。
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そしてなんとも残念お目当てのいろは丸資料館には時間がなくなっていくことはできませんでした。ここを楽しみにしていたのに〜〜なんていうこと〜
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龍馬ら海援隊が借入れていた蒸気船「いろは丸」が、紀州藩の軍艦・明光丸と衝突して沈没するという事件がありました。その談判の場として使われた町家(旧魚屋萬蔵宅)が、現在の『御舟宿いろは』です。
2003年当時は空き家で老朽化も進んでいましたが、NPO「鞆まちづくり工房」さんなどの手によって、見事、旅館として再生。本瓦葺の屋根に、漆喰の白壁、ベンガラ塗りの柱や窓枠など、今ではすっかり鞆の浦らしい「粋」な外観を取り戻しています。
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1655(明暦元)年に大阪から鞆に移り住んだ中村吉兵衛は、1659(万治2)年に漢方薬酒・「十六味地黄保命酒」の製造・販売を始めました。「保命酒屋」(旧中村家)として、江戸時代の間は醸造販売権を独占し、隆盛。まさに鞆の経済の中心だったのです。
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そして紀州藩と談判していたとき龍馬が滞在していた宿
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松ノ木が屋根瓦からつきだしてでている。もしや龍馬が滞在していたときもあったものか・・
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鞆の浦での滞在時間は60分でしたがそのうち45分はガイドさんについて町めぐりでしたので自由行動の時間は15分でいろは丸資料館をみることはできませんでした。ホント心残りで仕方がありません。
このすばらしいロケーションが気に入られてたくさんのテレビ映画のロケ地となっているわけがわかります。
一番期待していたところがこれしかみれないとは・・・まあツアーなら仕方がないのか・・・
でも鞆の浦は本当にすばらしいところです。それをわかっただけでも来た甲斐がありました。
そしてもう一度絶対来よう〜そのときはじっくり見て回りたい。今度はいろは丸に乗って絶対仙酔島に行きたいな・・・
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今回もたくさんの観光地をまわりましたが、尾道、鞆の浦はもっと時間がほしかったですね。
しかし鞆の浦は龍馬の足あとを感じることができてとてもよかったです。
楽しい2日間でした。
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