カメラを持って出かけよう〜

カメラと旅と歴史が大好きで、主にひとりで写真を撮りに出歩いています。

山陰・山陽

出雲大社と松江の旅 その2出雲大社 尾道 鞆の浦

12月10日(木)雨
昨夜はよく眠れました、朝食ブッフェをいただき、ホテルを8:00にチェックアウト。
朝から雨模様・・・・覚悟していたが、すこしでも雨があがってほしいと願う。
今日はまず出雲大社へ行きます。1時間ほどバスに揺られ到着、まだ参拝客がだれもいない。
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だんだん雨足が強くなってきます。
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縁結びの神・福の神として名高い『出雲大社』は、日本最古の歴史書といわれる「古事記」にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社と呼ばれていました。
主祭神は大国様として馴染みの深い『大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)』で、「古事記」に記される国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された天日隅宮(あまのひすみのみや)が出雲大社の始まりといわれています。
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大国主大神が祀られている本殿は延享の造営(1744)で建立されたもので、大社造で国宝に指定されています。神社建築の中では日本一を誇り、高さは約24m、厚い桧皮葺きの屋根の棟の上には長さ7.9mの二組の千木が交差しています。千木の上方にあいている小さな穴は、実際は大人一人がくぐり抜けられるほどの大きさで、本殿の大きさを実感できます。本殿に祀られる御神体は西向きで稲佐の浜の方角を向いておられ、本殿の正面から参拝すると、神様の横顔を拝んでいる事になります。
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古代の本殿はこのように高い柱でできた建物だったようで、柱のあとが発掘されてわかったようです。
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柱の実物大はこんなに大きい。
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現在でも柱のあとが赤い石で記されている。
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檜皮葺の模型
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大きな注連縄
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ここでは二拝四拍手一拝。よき幸にご縁がありますようお参りしました。そしてYちゃんに厄除けのお守りを買いました。来年無事に日本に帰ってこられますようにと・・・
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出雲大社の住職千家国麿さんと高円宮典子さんが住んでいらしゃる館ですね。
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約60分の参拝と拝観でしたが十分だったと思います。雨も強くなってきました。
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ありました!彩雲堂の若草という和菓子。
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そして次は瀬戸内海側に向かいます。途中、世羅に寄りました。世羅といえば高校駅伝で有名な世羅高校があるところです。
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世羅の陸上グッズも売っていました。
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そして2時間ほどで尾道に着きました。尾道初めて来ました。
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瀬戸内海に面して山が迫っているため、傾斜に家がたくさん建っています。珍しいお城を見つけました。断崖に立っているよ〜
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尾道での自由行動は90分。千光寺公園へ行きたかったのですが、ロープウェイが休業しているらしく歩いていくには時間がかかりすぎるのでやめて古寺めぐりをしようと思います。
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千光寺公園に向かう坂にたくさんのお寺があるのです。
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長崎のような坂がたくさんあり途中途中海を眺められるのでこれは晴れた日に来たら最高だと思います。
まずは持光寺へ・・
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坂は迷路のようになってしまいそう・・
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道標があるとほっとします。昔のままの家もたくさんあり、見ていくだけで楽しい。
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さすが映画のロケ地尾道。最高のロケーションだわ。雨がホント残念
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光明寺。
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お地蔵さん
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宅急便のお兄さんも荷物を背負って坂の階段を登る。
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次々に探さないと時間がなくなります。そして雨が降っているので撮影が厳しくなります。
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この町にあこがれてお店を出す若者も多いのでしょう〜すてきな雑貨やさんやアートなお店もありました。
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登ったり下ったり汗をかきます。
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そして天寧寺にたどり着きました。
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ここの五百羅漢像は見ておかなくっちゃね。中は撮影できませんでしたが、威風を醸し出す五百の羅漢像がこちらを向いている姿は圧巻でした。
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90分という時間の早いこと・・・他におのみち映画資料館、文学館などに行った人がいたようですが、90分の間にここを見て歩くにはどれも時間が足りないように思えました。帰り尾道本通り商店街を歩いて帰ります。
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レトロな建物が目を引きます。
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林芙美子記念館
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林芙美子像
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映画スターの足型ストリート
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時間ぎりぎり〜まだまだ見たりない〜レトロなお店がたくさん。尾道ラーメンも食べたかったなぁ・・・
物足りなさを感じながら最後の観光地「鞆の浦」に向かいます。
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福山駅から南へ14kmの海岸沿いに位置する鞆の浦。古くから潮待ち風待ちの港として万葉集にも詠われた名勝で、日本で最初に国立公園として指定された瀬戸内海国立公園のひとつです。晴天の波穏やかな瀬戸の海に仙酔島や弁天島が霞み浮かぶのどかな風景は心洗われます。江戸時代には北前港としても栄え、朝鮮通信使が度々寄港。真言宗福禅寺が迎賓の場所として使われました。本堂隣の「対潮楼」は元禄年間(1688〜1704)に建てられたもので、客殿として朝鮮からの賓客の宿舎として使われました。座敷からは海と島が一望でき、通信使の李邦彦が「日東第一景勝」と賞賛しました。国内外との交易で栄えた港で歴史に名高い旧跡や遺構も多く残されています。
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平成いろは丸船乗り場。ここから仙酔島までいろは丸に乗っていけるそうです。やはり今回は時間がなくていけませんが・・
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そしてここから現地ガイドさんについて鞆の浦の町を巡ります。
最初にこの岩壁の説明を受けたのですが、ここの上が対潮楼だったとは・・対潮楼は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったようです。あとで行くのかと思いきやはしょられた・・・
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かわいい猫のバス停。
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現在の鞆の浦の波止の景観は、江戸時代から幾度となく造営を繰り返されて出来あがったものです。古くから鞆港は、東側の大可島や西側の明神岬、それに南側の玉津島などの自然の波よけのおかげで、天然の良港として栄えていました。しかし、近世初頭に大可島を陸続きにしたため、港の海底に土砂が堆積して浅くなったり、また台風は自然の波止ではさすがに防ぎきれずに、船舶が損傷を受けたりして、いよいよ波止場の造営の必要が出てきたのです。
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龍馬もみたこの鞆の浦の港
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鞆港西側の雁木の南端に立つ常夜燈(とうろどう=燈籠塔)は、何と言っても鞆の浦の1番のシンボルです。「安政六年己未七月」(1859年)に建造されました。南に弓状の港を有する鞆の浦は多島海の天然の良港で、豊後・紀伊水道がぶつかる瀬戸内海の中央部に位置し、“潮待ちの港”として栄えました。
1826年、オランダ商館の医師・シーボルトは『江戸参府紀行』の中で「活気に溢れた町」と記しています。その港町の海上安全を支えたのが、この常夜燈なのです。
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みごとな雁木。潮の干満に関らず船着けできる石階段、それが雁木です。満潮時には最上段が岸壁となり、干潮時には最下段が荷揚げ場となります。
雁が飛ぶさまに似ていることから「雁木」と呼ばれるようになったんですね。最上段には明治から昭和期に作られた円柱形の船繋石(ふなつなぎいし)が等間隔で並んでいます。全国でも類のない鞆の浦の雁木の雄大さ。
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木が腐らないように焼きをいれている。白い壁との色彩がきれいである。
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雨に濡れた石畳がとってもすてきです。
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太田家住宅は、1991(平成3)年に国の重要文化財指定を受けました。瀬戸内海を代表する往時の商家の佇まいを今に伝える、歴史的価値のある建造物群です。主屋や炊事場、保命酒蔵が見事に保存されていて、玄関には杉玉掛けもあり、造り酒屋の構えをよく残しています。これらの建物群は江戸時代中期から後期にかけて、「旧保命酒屋」中村家が拡張・増築していったものですが、明治に入って廻船業を営んでいた太田家に継承され、今日に至っています。
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幕末の政変によって都落ちした三条実美ら尊王攘夷派の公卿7人が、鞆に立ち寄った際に一時の憩いを得たのが、この太田家住宅(旧保命酒屋)でした。公卿らは保命酒に陶酔し、その美酒を褒め称える歌を残しています。
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言わずと知れた人気アニメーション映画『崖の上のポニョ』。制作側は明言していませんが、どうやら「ポニョは鞆の浦が舞台なのでは?」と囁かれているようです。というのも、社員旅行で鞆の浦を訪れた宮崎駿監督が、鞆の浦を気に入り再訪。長期間にわたる滞在中、宿泊施設や鞆の町を歩きながらポニョの構想を練った…といわれているからです。ポニョの作中には、よく見るとどこか鞆の浦を描いたようなシーンを見つけることができます。また、鞆の浦には宮崎監督が設計に携わった宿や、実際に立ち寄ったパン屋さんなどがあります。
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そしてなんとも残念お目当てのいろは丸資料館には時間がなくなっていくことはできませんでした。ここを楽しみにしていたのに〜〜なんていうこと〜
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龍馬ら海援隊が借入れていた蒸気船「いろは丸」が、紀州藩の軍艦・明光丸と衝突して沈没するという事件がありました。その談判の場として使われた町家(旧魚屋萬蔵宅)が、現在の『御舟宿いろは』です。
2003年当時は空き家で老朽化も進んでいましたが、NPO「鞆まちづくり工房」さんなどの手によって、見事、旅館として再生。本瓦葺の屋根に、漆喰の白壁、ベンガラ塗りの柱や窓枠など、今ではすっかり鞆の浦らしい「粋」な外観を取り戻しています。
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1655(明暦元)年に大阪から鞆に移り住んだ中村吉兵衛は、1659(万治2)年に漢方薬酒・「十六味地黄保命酒」の製造・販売を始めました。「保命酒屋」(旧中村家)として、江戸時代の間は醸造販売権を独占し、隆盛。まさに鞆の経済の中心だったのです。
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そして紀州藩と談判していたとき龍馬が滞在していた宿
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松ノ木が屋根瓦からつきだしてでている。もしや龍馬が滞在していたときもあったものか・・
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鞆の浦での滞在時間は60分でしたがそのうち45分はガイドさんについて町めぐりでしたので自由行動の時間は15分でいろは丸資料館をみることはできませんでした。ホント心残りで仕方がありません。
このすばらしいロケーションが気に入られてたくさんのテレビ映画のロケ地となっているわけがわかります。
一番期待していたところがこれしかみれないとは・・・まあツアーなら仕方がないのか・・・
でも鞆の浦は本当にすばらしいところです。それをわかっただけでも来た甲斐がありました。
そしてもう一度絶対来よう〜そのときはじっくり見て回りたい。今度はいろは丸に乗って絶対仙酔島に行きたいな・・・
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今回もたくさんの観光地をまわりましたが、尾道、鞆の浦はもっと時間がほしかったですね。
しかし鞆の浦は龍馬の足あとを感じることができてとてもよかったです。
楽しい2日間でした。
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出雲大社と松江の旅 その1松江城

12月9日(水)天気 曇りのち晴れ
今年最後の旅行〜出雲大社と松江の旅に行ってきました。
出雲大社は高校の修学旅行以来〜縁結びの神様と知られていますが、来年に向けてたくさんの幸の縁がありますよう、お参りしてこようと思います。
そして今回のこのツアーが気に入って申し込んだ理由に2日目の福山市の鞆の浦を訪れるというのが最大の魅力でした。
鞆の浦といえば・・・もちろんいろは丸事件鞆の浦です!
龍馬ファンの私としては絶対行ってみたいところです。楽しみわくわく

6:34分発のぞみ3号で新横浜駅を出発〜9:30分岡山駅着。
乗り換え〜名古屋からのツアー客と合流、10:05分初めて特急やくも7号に乗車、松江に向かいます。
岡山から縦断して山陰路へと・・・ひとり席にゆったり。以外と2時間半かかります。
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松江駅12:36着〜本日宿泊の駅前にある松江エクセルホテル東急にチェックイン。
荷物をお部屋に置いて、すぐ松江市内観光。
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快晴のいい天気。
昔ながらの蔵造りのお店があります。
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中海から宍道湖につながる大橋川。ラインくだりもあるようです。
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川べりに建つすてきな建物。
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カラコロ工房 旧日本銀行松江支店の建物。ここより参加者24名、2手に分かれてガイドさん付きで散策。
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カラコロ工房には雑貨やさんなど、かわいらしいお店があります。
ピンクのポストが縁結びの出雲にふさわしい趣向。
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ちょっと絵になる川べりの風景。
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もうすぐ松江城〜竹島資料館もありました。領土問題はやく解決してほしいです。
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そして松平直政像。京極家の跡を継ぎ、信濃の国松本から出雲に入国し、慶長19年(1614年)14歳で大阪冬の陣に参戦し、初陣ながらも力戦奮闘した。敵将真田幸村はその武勇を讃えて自らの軍扇を与えたという。徳川初代将軍家康の第二子,結城秀康の第三子である。
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松江城前、堀尾吉晴像。慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の後、出雲,隠岐両国を拝領した子の忠氏とともに、遠江国浜松から月山冨田城に入ったが松江の将来性に着目して城地を移した。豊臣秀吉、徳川家康と二人に仕え、豊臣政権下では三中老の一人として功績を残している。城普請の名人であり、孫の忠晴を助け松江城と城下町を建設し、現在の松江市の礎を築いた。
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日本の城で最近 国宝になった松江城である。
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黒を貴重とした風格ある城である。

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天守からの眺め。宍道湖を望む。
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東側には伯耆富士と呼ばれる大山が見える。
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江戸時代の松江の城下町に想いを馳せてみる。
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そして松江城見学のあとは自由行動〜小泉八雲記念館へ・・・ここは高校の修学旅行で訪れた記憶があります。
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宍道湖名物しじみ汁飲みたいなぁ・・
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日本の道百選に選ばれた道。
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いい感じの町並みが続きます。
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武家屋敷などを拝観。
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明々庵。素敵なお茶処もあります。
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城のお堀の脇の松も立派です。
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宇賀橋。
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松江歴史館。
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堀川の遊覧船にも乗ってみたかったけれど冬の時間は早いもうおしまいのようです。
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そして夕方見ておきたい場所があります。バスの下にも夕日鑑賞便とかいてあるし・・・
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そう〜宍道湖の夕日です。あいにく今日は雲がたくさんあって宍道湖に沈む夕日は見られませんでした。
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夕方日が沈む宍道湖を後にしながら町散策しながら帰ります。
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川岸を歩いていると海とも川ともない匂いがしてきます。
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町に灯りが点り小さな路地には小さな料理屋さんや飲み屋さんがいい風情をだしています。
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松江駅17:30。駅ビルで夕飯を食べよう〜
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一畑百貨店の上のお蕎麦屋さんで出雲蕎麦とミニ天丼を食べた。
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出雲蕎麦、期待していたわりに美味しくなかった
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ちょっとがっかりな夕飯になったがホテルはまあまあ〜
とりあえずコンビニでビールとつまみを買って一杯やって寝ました〜
明日は楽しみな〜鞆の浦で〜す
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2015春 倉敷・姫路城の旅

倉敷・姫路の旅2日目〜
5:30起床、6:30ホテルの朝食バイキングをいただき8:00ツアーのバスで出発〜
今日も小雨が・・・・でも姫路地域は曇りくらいの天気予報だからぜひ雨だけは降らないでほしい
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2時間弱バスに揺られ姫路城に着きました〜
10:00でももうたくさんの観光客が来ています。駐車場もすごく広くってびっくり〜遠くに見えるあの真っ白いお城に胸がワクワク
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どうにか天気はもって、桜もきれいに咲いているよ〜
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敷地の周りに大きなお堀。


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白亜の要塞を囲むお堀もみごとだ!
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世界遺産の姫路城ですがお城のなかでも日本に4つあるの国宝のひとつです。
松本城、彦根城、犬山城、そして姫路城。現存するお城が絶対条件です。
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さぁ〜もうすぐだよ〜
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みえてきました〜
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1日15000枚配布の整理券はGETできた。しかしここから並んで天守閣までいくには2時間かかるという〜絶対登るぞぉ〜
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ちょっと斜めの角度からみるのが真っ白に見えるのね〜
白んでいるのは曇っているわけではありません、カメラの状態が悪いものです。
天気も若干よくなってきました。青空は望めませんでしたけど空高くそびえる姫路城に感動〜
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桜が似合うお城です。
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いろんな角度から撮ってみました〜やっぱり一眼レフカメラじゃないとだめだなぁ・・・
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お城の周りをまわりながらやっと城内部に入ってもなかなか上には登れません。
かなりの人が小さいそれも70度はあるかの階段を登っていかなければならないので多くの人が登れないのです。
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小天守
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かなり高いところまできたと思ったけれどまだ3階部分でした。
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そしてとうとう最上階天守へ!
ここはお城にはめずらしい神社があります。長壁神社といって姫山の地主神で近代になって天守に祀られるようになりました。
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天守からの眺め〜
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結構高いね〜
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真っ白に見える瓦はかまぼこ型のように丸く漆喰で塗られています。盛り上がって屋根全体が白くみえるのはこのようなわけがあったのです。
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日本一長い櫓で千姫の間にもあとで行ってみましょう〜
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でっかいしゃちほこ〜向こう見えるまっすぐな道の先が姫路駅〜
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桜も散りかけていますが風に吹かれて桜吹雪もとってもきれいよ〜
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たくさんの撮影絶景ポイントがあります。ここからの眺めもけっこういいです。
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ズームアップ!見る角度でずいぶん屋根が真っ白にみえる。この白さも風化によって何年かだけしかみらえないんだという。貴重な真っ白な白鷺城をみておこう〜
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NHK番組で姫路城の修復に携わった職人さんのテレビをみたことがある。この漆喰を守るため一年中どこかを補修して塗っているのだそうです。
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すごい武者返しの石垣。
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そして姫路城の敷地内に番町皿屋敷で有名なお菊井戸もありました。
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怪談話し〜一枚〜二枚〜幽霊がでてきそう・・
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千姫の間にいきましょう〜
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遅咲きの桜は今が見頃〜とってもきれい〜
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敷地内を散策する間姫路城をパチパチとりまくり〜
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日本一長い櫓からみた天守閣。
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長い櫓は小さな部屋がいくつも仕切られて並んでいました。千姫に仕えた女官たちが暮らしていた様子がうかがえます。
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千姫がかるた遊びをしている人形セット。
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とりあえず2時間びっしり見学できました。天守閣までは時間かかりましたが他は以外とスムーズに見ることができました。
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ゆるキャラの「しろまるひめ」もいました。
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そしてお城を退場してお昼にしましょう〜
この日は風が冷たく寒くなってきましたので3人そろって官兵衛うどんをいただきました。
そして集合時間まで1時間ほど時間があったので姫路駅のほうへ町歩きをしました。
途中お茶をしながら時間をつぶし3時姫路城をあとにしました。
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そして今回最後の訪問地瀬戸内海を見渡せる牛窓へやってきました。
1時間ちょっとバスに揺られました。(後ろの席のおばさんの話声がうるさくて寝られませんでしたが・・・)
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オリーブで有名な小豆島が向こうにみえます。
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あいにく曇っていますが晴れていたら高台からみえる景色は絶景でしょう〜
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レストからみえる小豆島。瀬戸内海特有の小さな島々がたくさんみえます。
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小豆島の名産オリーブの木もたくさんありました。そしてお土産にオリーブの美容液とハンドクリームを購入しました。
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そして岡山駅に6時頃到着し、岡山駅で夕食の買い物をし、7時16分の新幹線のぞみに乗り込みました。
楽しかった倉敷、姫路の旅も終わりです。
久々に友との語らいもでき、充実した楽しい2日間でした。みんな健康でそしてまた元気で旅行いけるよう、明日からがんばっていきましょう〜虹子さんKさんお世話になりました。
そして虹子さん高田の写真ありがとう〜みんなこれみて元気になりましょう〜

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2015春 倉敷・姫路城の旅 

おまたせしました〜春爛漫な4月〜今年は桜の開花が早かったね〜
満開はちょっと過ぎちゃった4月6日(月)久々に中学の友3人で倉敷、姫路へ行ってきました〜
春の旅行はなかなかなかったのですが今年は桜が咲いている時期にということで、一番のお目当てはグランドオープンした桜の姫路城をみよう〜と計画しました。
気心しれた3人組〜久々にあったにもかかわらずいつもの大笑いはやっぱり中学の頃のまま旅行はこうでなくっちゃね・・・

さて〜新横浜10:49発新幹線のぞみで岡山まで、岡山から在来線に乗り換え14:00すぎ倉敷に到着。
本日はゆっくりの出発なのでとっても体が楽です。
こちらは岡山駅到着の画像。
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倉敷に着いたらこんな雨模様
ツアーグループと一緒にまずはホテルにチェックインして荷物を置き後は自由行動になります。
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宿泊はコートホテル倉敷。倉敷美観地区に近く便利な場所にあります。
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お部屋に荷物を置き、コンビニで買ってきた夜のビールを冷蔵庫に入れて冷やしてさぁ〜倉敷の美観地区の散策に出かけま〜す
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しっとりちょっと肌寒いかな・・・しかし雨に濡れた町並みも情緒あっていいわね〜
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白壁の建物は昔のままの姿が残されています。
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映画の撮影セットのよう〜
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日没後には天領のあかりも楽しめるようです。
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雑貨屋さんや食べもの屋さんがたくさんありますがどこも混んでいるといった感じではなく落ち着いた雰囲気があります。特に外人さんも多く見かけられました。
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川べりの柳の木も新芽が顔を出していました。
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桜もこんな感じです。
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倉敷の美観地区でお土産を・・・
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倉敷デニムも有名です。
かなりリーズナブルだったのでショルダーバッグを購入しました
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そしてアイビースクエアーにも行ってみました。
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綿花や米の集散地として栄えた天領の町倉敷でしたが、明治になると紡績業で再興が図られ、代官所跡に倉敷紡績所が建設されました。
その工場を再開発し、複合交流施設として再生したのがアイビースクエア。ツタ(=アイビー)のからまる赤いレンガが目をひく敷地内には、陶芸が体験できる工房やホテルなどがあり、創業当時の原綿倉庫を利用した倉紡記念館は、当時の産業の歩みを現代に伝えています。
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これから夏にかけてびっしりアイビーが絡んでくるのでしょうか・・
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赤レンガにアイビーがぴったりあいます。
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近代化を目指した明治の建築物を感じさせます。
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赤レンガは東京駅や富岡製糸工場でもよく使われていましたね。
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そして思わぬものを発見!NHK連続テレビ 「マッサン」のロケ地のよう〜
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ここが撮影に使われたよう〜北海道余市町のウイスキー工場にちょっと似てますね。
いい雰囲気でてますね〜
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そして夕刻倉敷駅近くの瀬戸内 海鮮料理の「白壁」さんで食事をとりました。
おつかれさま〜乾杯〜今日は遅い時間からの出発だったにもかかわらず結構疲労しました。
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おとうしの塩辛とえび。
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野菜の天ぷら。
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レンコンサラダ。
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焼きままかり。ままかりはこちらの地方の名産。
初めて食しましたけどめざしとそう変わりはありませんでした。
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お刺身5点盛り。新鮮でおいしいぃ〜
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虹子さんに勧められた芋焼酎「赤霧島」私好みでした
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牛蒡の天ぷら。
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あさりの酒蒸し。
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若竹煮
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黄ニラ(虹子さんのみ食べました。特段美味といったことはなかったそうです)
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焼きおにぎり。ちょっと食べた後でした。
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楽しい倉敷の夜の食事でした。
そしてホテルに戻る前に天領のあかりを見に行きました。
さっきよりもまた人が少なくなり静まり返っていました。雨に濡れたしっとりした灯りがすてきです。
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ほどなく歩いて夜の倉敷もしっかり目に納めました。
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ホテルに戻って夜の部。ビールで一杯〜福山さん出演のテレビをみて12:00頃就寝しました。
明日は念願の世界遺産 姫路城へ行きま〜す
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広島の旅 その2 原爆ドーム 平和記念資料館 大和ミュージアム 

12月16日(月)6:30起床。昨夜はぐっすり寝れた。
さぁ〜今日も楽しみな場所に行くぞ〜さっとシャワーを浴びて窓を開けると・・・
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ここはコートホテル広島の8階。天気もよさそう〜いい眺めです。
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7時からの朝食バイキングに一番乗り〜たくさんのおかず取っちゃいました〜
しっかり食べて今日も元気に動き回ります。
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ホテルを8:30チェックアウト。本日はすべて自由行動。17:34の新幹線に乗り込めばいいだけ。2日目の行動は前もって電車の時刻など調べておいたので、予定通りこなせるかどうかです。
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すこし雲が多いかな・・昨日ほど天気は快晴ではない。今日の予定は原爆ドーム、平和記念資料館に行ってから、呉まで足を伸ばして、大和ミュージアム、てつのくじら館なども見て回ります。
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銀山町から路面電車で原爆ドーム前まで行きます。銀山町から6つ目です。広電の運賃は均一150円です。
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電車がきた〜こういう電車がやはり路面電車って感じですよね・・・いいですね〜
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着きました。元安川のほとりに建つ原爆ドーム。
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向こう岸に見える原爆ドーム。当時広島県産業奨励館(今でいうデパート)の上空で爆発した原爆は広島市内を一瞬で破壊した。当時の建物の写真が写っていますが、チェコ人の建築家ヤン・レッツェル設計の立派な建物です。
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近くでみるとかなり生々しい破壊のあとが残っている。
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昭和20年8月6日午前8時15分17秒アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点で炸裂した。原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルである)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされた。このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。(ウェキより)
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当時のこの周辺の木造建物もすべて破壊された。このようにこの建物が残った理由として・・・
衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったことドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったことなどが挙げられている。ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃を受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物(被爆建物)として残った。
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原爆投下時に建物内で勤務していた内務省(建設省)職員ら約30名は、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されている。なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、1名は原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅し自宅前で被爆し負傷したものの、原爆投下当日に産業奨励館に勤務していた人物の中で唯一の生存者となった。その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなった。
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広島の原爆投下は、これは実戦で使われた世界最初の核兵器である。この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万〜16万6千人が被爆から2〜4カ月以内に死亡したとされる。
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アメリカは亡命物理学者のレオ・シラードの原爆開発提言などを受け、1942年6月、ルーズベルト大統領の指示でマンハッタン計画が開始された。1944年9月、ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の間でハイドパーク覚書が交わされ、日本に対して原爆を使用することが決定された。1945年4月には第1回目標選定委員会が開催され、原爆投下目標の選定が始まった
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8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎である。0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。
続いて1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。その離陸2分後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、更に2分後の1時49分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29も飛び立った。即ここの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、内4機が広島上空へ向かっていたことになる。テニアン島から広島市までは約7時間の飛行で到達できる。
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7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。7時15分ごろ、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。第1目標を爆撃せよ)。この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。
ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。

8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600ft(9,632m)。まず原爆による風圧等の観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下させた。青空に目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。
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8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP)に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度等の入力をし、投下目標(AP)を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。
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8時15分17秒、原爆リトルボーイが自動投下された。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の直撃による墜落を避けるためにバンクして進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を激しい勢いで急降下させ、キャビンは一時無重力状態になった。リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした。
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原爆の目標とされた相生橋。
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広島には軍都としての側面もあった。日清戦争時には前線に近い広島に大本営(広島大本営)が置かれ、また臨時帝国議会(第7回帝国議会)も広島で開かれるなど、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。すなわち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200mに爆心地がある。また宇品港に置かれた陸軍船舶司令部は兵站上の重要な拠点であった。
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被爆当時の市中人口は約35万人と推定されている。内訳は、居住一般市民約29万人、軍関係約4万人、および市外から所用のため市内に入った者約2万人である。
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多くの人々がいまでも訪れ悲惨な核兵器戦争の犠牲者に手を合わせている。
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原爆ドームよりさらに奥へ進むと元安橋があり、その先に平和記念資料館があります。
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見えました。このあたりは終戦後平和記念公園として整備され、永遠に平和を祈る場所になったのです。
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安らかに眠って下さい。過ちは繰りかえしませぬから・・・と書かれています。
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平和記念公園の表通りからみた。
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入り口。
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平和記念資料館。
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近代的な造りです。
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そして入館9:30。手荷物をコインロッカーに預けて。入館料50円とはなんて安いんだ。
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イヤホンガイド使用料300円。これがあるといっそう理解が深まります。
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平日だというのにすごい人です。修学旅行生も多いのか・・・しかしみな真剣にみいっている。戦前の広島の歴史から始まります。そして核兵器使用がいかに惨い戦争だったかを感じずにはいられない展示ばかりです。
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写真の中には目をそむけたくなるものもありましたが、これは日本人だけではなく世界中が忘れてはならない事実なのです。
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テーマ別に順路を通っていきますが、核兵器保有国についても展示されていて、これから世界が核兵器について考え歩んでいかなければならないテーマもたくさんありました。
核保有国は核抑止論をいいますが、そこにも理不尽を感じずにいられません。
核抑止(かくよくし)とは、核兵器の保有が、対立する二国間関係において互いに核兵器の使用が躊躇される状況を作り出し、結果として重大な核戦争と核戦争につながる全面戦争が回避される、という考え方で、核戦略のひとつである。核抑止理論、また俗に「核の傘」とも呼ばれる。
全世界平和を保つためにはどうしたらよいのだろうか・・・ひとりひとりが考えなければいけない・・・
唯一原爆を経験した日本は核廃止を訴えていかなければならないと思う。
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8月6日の午前11:00くらいの写真。居合わせたカメラマンもシャッターを押すことができないほど、悲惨な状況を唯一撮ったという写真。
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館内は写真撮影可ですがフラッシュだけはNOでした。この写真はちょっとぼけていますが、焼け野原となった広島の町をさまよう親子のようすを描いた人形のセットです。
ここのイヤホンガイドでは吉永小百合さんの詩の朗読もありました。
約2時間見学しましたが、テレビや本でみる原爆の知識をはるかに越えて実感したような気持ちです。
今回の広島も沖縄の平和記念資料館、知覧特攻平和会館と同様、涙なくしてみれないものでした。
悲惨な戦争 誰もが望むものではありません。しかしその恐怖,核原発と共存しているのも現実です。
これから平和な世界がずっと続くためにはどうしたらよいか・・・そしてこのヒロシマの歴史が残してくれたものを絶対無駄にしてはならないと思いました。
さらに詳しく見たい方はこちらを→平和記念資料館
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さぁ〜重苦しい気持ちのまま次の場所に向かいます。
平和の時計塔。
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相生橋
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相生橋からもういちど原爆ドームを眺めた。
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そしてまた広電に乗り広島駅に着きました。午後からは呉方面へ行きます。
12:30のJR呉線の電車に乗れました。快速安芸路ライナーで30分ほど。
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13:00すぎ呉駅に到着。
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呉駅直結のデッキを渡るとすぐにてつのくじら館が見えました。
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その前が大和ミュージアムです。
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戦艦を満喫します。こちらも館内はフラッシュNOで写真撮影可です。
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ここにはすごい戦艦マニアっぽい人が多いですね。という私も女でひとりこういうところに来るっていうのはそうみられているのかもね・・・
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戦艦大和の構想は、第一次大戦後に遡ります。大正11年(1922年)にワシントン海軍軍縮条約、続いて大正5年(1930年)にロンドン海軍軍縮条約が締結され、日本海軍の装備はアメリカ・イギリスの6〜7割までとすることが決定され、主力艦の建造が中止されました。
海軍軍縮条約の期限は昭和11年(1936年)末でした。海軍の装備を制限する条約がなくなり、各国間での軍艦の建造競争となった場合、日本は総合的な国力で他の有力な国々に劣るため不利とならざるを得ません。そこで海軍は、艦船の数で勝負するのではなく、他国に勝る性能を有する戦艦を備えることを考えました。この際に重視されたのが、主砲の大きさでした。アメリカ海軍は、太平洋と大西洋を行き来する際にパナマ運河を通過していました。しかし、この運河の門の幅は33メートルであるため、ここを通り抜けることのできる艦船も幅がこれ以下の規模のものにほぼ限られました。戦艦で言えば、主砲の大きさが41センチ未満のものという計算になります。そこで日本海軍は、これを上回る大きさの主砲を備えた戦艦をアメリカ海軍が建造する可能性は低いだろうと判断し、さらに大きな46センチの主砲を備えた大戦艦の建造を計画したのです。こうして造られたのが戦艦大和でした。
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ここにも昭和の戦争史から戦艦に関する資料が膨大にあります。
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日本は戦前から造船技術は世界一だった。特に戦艦に関してはたくさんの戦艦を生み出した。しかし第2次世界大戦の頃には戦争は海から空へと変わっていたのです。
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昭和16年(1941年)12月8日、空母6隻を柱とする機動部隊がハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を奇襲し、二度にわたる攻撃によって停泊中の戦艦8隻のうち4隻を撃沈、3隻を大破させました。そのわずか二日後、日本海軍航空部隊は、マレー沖でイギリス東洋艦隊の主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈します。日本のこの緒戦の勝利は、皮肉にも戦いの主役が大和のような戦艦から航空機へと移ったことを証明することになります。大和は「大艦巨砲主義」、すなわちより大きな砲弾をより遠くへ飛ばす戦艦を軸に海軍を編成するという作戦思想の産物でした。しかし、各国の航空機の性能が飛躍的に向上し、さらに洋上の基地となる航空母艦が主力になります。この状況の変化により、大和が必勝を目指していた戦艦による艦隊決戦自体が行われなくなりました。
昭和16年(1941年)12月の竣工後、大和は連合艦隊に編入され、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦で初陣を迎えます。その後、マリアナ沖海戦(米軍呼称はフィリピン海海戦、昭和19年(1944年)6月19日〜20日)、比島沖海戦(米軍呼称はレイテ海戦、同年10月23日〜25日)はともに対空戦闘に終始したため、大和の主砲が威力を発揮することはありませんでした。しかし唯一、比島沖海戦中、サマール島沖で米護衛空母部隊と交戦した際に敵艦に対して砲撃が行われ、この時が、大和が敵艦に向けてその主砲を放った最初で最後となりました。
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ボイラーで作業する乗務員。
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明治の戦争史など・・
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昭和20年4月1日、アメリカ軍は沖縄に上陸、支援兵力は、艦船1,500隻以上、航空機1,700機あまり。4月5日、「天1号作戦」を発令、徳山沖に待機中の大和に出撃命令が下る。目的地は沖縄。作戦は、片道分の燃料を積んで特攻、自ら浅瀬に乗り上げて動かぬ砲台となり、敵の陸上部隊を砲撃するものだった。司令官は一応反対したものの、連合艦隊司令部の「一億特攻のさきがけとなれ」の言葉で承諾、4月6日午後4時、戦艦大和は出撃した。その最期は、22時間後に迫っていた。
沖縄を目指す大和は、豊後水道に達しようとしていた。午後6時、乗組員は甲板に集められた。そして、初めてこの作戦は生還を期さない特攻であることを知らされた。
3本の魚雷が大和に命中、再び傾いた大和は、バランスを取り戻すことはできなかった。
「14時17分」 またも魚雷が左舷中央部に命中、大和は傾斜が大きくなった。長官は、特攻作戦中止命令を下し、長官室に入って内側から鍵をかけた。
「昭和20年4月7日14時22分」 大和は横転、大爆発を起こした。沈没によって命を落とした乗組員は、3000人以上に上る。大和の沈没、これは、かって無敵を誇った日本海軍の滅亡を象徴するものでもあった。昭和20年8月15日、日本は、敗戦の日を迎えることになる。 
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潜水艦。
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「日本海軍は、大和特攻が全滅に近いことになって、海軍として、はじめて終戦ということを考えたんですね。まだ徹底抗戦派はいましたが。大和は、大鑑巨砲主義による洋上決戦のための船であって、時代が変わってるんだということを、見通せなかったと言うか、そのための悲劇の船だったと言えます」
元大和乗組員の著書「戦艦大和の最期」にある言葉
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」
日本海軍の栄光をになうべく誕生し、やがてその滅亡の象徴となった戦艦大和、3000人あまりの尊い命と共に、大和はいま、九州沖の海底深く眠りつづけている。(不沈戦艦大和の最期より)
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次はお隣のてつのくじら館へ・・
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今でも造船業が盛んな呉の港。現在は世界へ大型タンカーなどを輸出しているようです。
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しばしデッキを散歩してみる・・・
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下からみるとホントくじらのようね・・・
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正式名 海上自衛隊呉史料館
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潜水艦あきしお 日本で作られた潜水艦にはみな 語尾に・・しおがついています。
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すっかり時間がすぎてしまったのでさっとみてまわりましょう〜
数年前まで使用されていた潜水艦内部も見学できました。
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艦隊員の寝室。
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呉駅前、海の歴史回廊か・・・他にも旧海軍墓地やアレイからすこじま、歴史の見える丘などにも行ってみたかったなぁ・・日本の歴史、軍事色つよいこの町もまた来なくてはならない場所だ。
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呉駅より15:44再び安芸路ライナーで広島駅に向かいます。
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最後は電車の時間が近づいてきたのでゆっくりみることはできなかったけれどほぼ満足できました。
電車に乗りながら呉の湾が見渡せて海色の歴史回廊の町を心に焼き付けました。
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そして16:15頃広島駅につき、最後のお土産を買い(生もみじ)、夕食のお弁当を買い、17:13のぞみ48号に乗車できました。充実の2日間でした。新幹線の中で食べるおかず、広島のカキフライを買いました。今日はお昼ぬきだったのでとっても美味しかったわ。ビールもね!
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天むす。
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焼きたらこ。
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大和ミュージアムで買った、半藤一利の昭和史を読んでいるとあっという間に新横浜に着きました。
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無事、楽しい広島の旅でした。
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広島の旅 その1 世界遺産 厳島神社 千畳閣 紅葉谷公園

12月15.16日と広島へ行ってきました。今年最後の旅行です。
今回もJR東海ツアーズのツアー旅行です・・・前から1泊2日で世界遺産 厳島神社の宮島観光と2日目のフリータイムという内容に格安価格にびっくり!これは絶対行きたいと思っていました。ひとり参加なので2日目は呉方面を自由に散策したいと思います。

15日(日)6:34発新横浜よりのぞみ3号で出発〜やっと夜が明けて白んだ空を眺めながら新幹線に乗り込みました。こんなときが一番わくわくします。
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今日も快晴のようだ。富士山あたりで朝日が差し込んで山を照らしている・・・
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3時間半の車中で朝ごはんのお弁当を食べ、あっという間にで広島に着いたという感じ。
広島の新幹線ホームでツアーのみなさんと合流(約25人)。ここから添乗員さんと一緒に宮島観光に向かいます。在来線(山陽本線)に乗り換え(約30分)宮島口駅に向かいます。オレンジの旗が目印〜迷子にならないように・・・
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山陽本線はかなり混んでいましたが座ることができ車窓からの景色も楽しみました。
やはり広島弁が飛び交っている。そんな言葉を耳にするとやはりここは関東からずいぶん離れているんだと思う。そして宮島口に着きました。いい天気です!ここからフェリーで10分宮島に行きます。
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フェリー乗り場。手荷物はJRの倉庫のようなところに預かってもらえ身軽になりました。頻繁にフェリーが出港しているので待つことなく乗船できました。
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10分の乗船時間、甲板に立って眺めているほうが気持ちいいよ〜。
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瀬戸内海の海もきれいです。
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只今11時30分 私たちは干潮のころの厳島神社をみることになりそう〜
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宮島に着きました。たくさんの観光客がフェリーから降りては乗っています。
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そして表参道商店街を通っていきます。いいにおいに誘われます〜焼き牡蠣のにおいがたまらない。
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杓子が有名です〜いろんなお願いごとが書いてあります。
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だいこん屋さんの前でお昼解散となります。1時間ほど自由昼食。
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出ました!宮島名物「もみじまんじゅう」1個プレゼントです。さっそくあったかいもみじまんじゅういただいちゃいました。とってもおいしかったです。さぁ〜お昼を食べに行きましょう
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お昼と思ったけれど、1時間たってしまったら海に浮かんだ大鳥居を見られなくなってしまうのでとりあえず一足先に見ておこう〜
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下に下りれば浜辺を歩くことができそう〜ということはやっぱり潮が引いてきているということだ。急がねば・・・
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たくさんの鹿もいます。奈良公園のようね。
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ガイドさんから紙を持っていると襲ってくるから気をつけてくださいといわれました。
白いおしりがかわいいわね。
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見えた〜
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かろうじて海に浸かっている。
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足元をみるともうだいぶ地面が近そうだ。でも間に合ってよかった。
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望遠で。満潮のとき鳥居の間をくぐる観光船もあるようです。
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とりあえず見れたのでよかった。さて表参道商店街にもどり、お昼にしよう。
まず目に付いたのが揚げもみじ。もみじ饅頭を揚げたものらしい。行列を作って並んでいるので私も食べてみよう。
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チョコ、クリーム、チーズなどがあったので私はチーズに。食べた感想〜いやぁ〜別にもみじまんじゅうはそのままたべたほうがいい気がします。あつあつでかりっとした感触はおまんじゅうを食べてるという感覚ではないです。
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あなごも名産です。
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牛まん、穴子まんもすごい人気だ。
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ここに来たからにはというものに挑戦しよう穴子まん。これはおいしい〜あなごの甘みとぴりっとしたさんしょの香りがおいしいです。
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世界一の大杓子、伝統工芸である宮島細工を後世に遺すとともに、杓子発祥の地である宮島のシンボルとして昭和58年に2年10ヶ月の歳月をかけて制作されましたが、展示場所が決まらず14年間倉庫に収められていたものを平成8年12月に嚴島神社が世界遺産に登録されたことと、宮島本通り商店街が宮島表参道商店街に改名したことを記念して現在の場所に展示されました。
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次は絶対食べたい焼き牡蠣。
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人気店は行列を作って並んでいます。ちょうどお昼時だもんね〜
私も並んで〜2個400円。醤油のこげた磯の香りがたまらない〜
汁まですすって〜美味しかった〜
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次はにぎり天!かわりさつま揚げですね。こちらも揚げたてなのでいいにおいに誘われます。
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私はねぎたこ1本300円をいただきました。弾力があってやわらかくってとってもおいしかったです!
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食べ歩き昼食で終わりました〜けっこうおなかいっぱいです。集合時間までちょっとあるので周辺を散策。
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町家通りなど昔ながらの民家がたくさんあります。
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かわりもみじがたくさんあるのね・・・
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そして集合して観光です!まずは千畳閣へ。これは千畳閣前の五重塔。
応永14年(1407)建立。桧皮葺で和様・唐様を融合した見事な建造です。
内部は彩色がしてあり豪華絢爛。内陣の天井には龍が、外陣の天井には葡萄唐草の模様が描かれています。
その他壁板には、迦陵頻伽[かりょうびんが]や鳳凰が極彩色で描かれています。特徴の一つに2層目で止まっている心柱があり、風に対して強い構造となっています。
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そしてこれが千畳閣(豊国神社)。国重要文化財
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桁行41m 梁間22m 単層本瓦葺入母屋 木造の大経堂
豊臣秀吉公が戦没者のために、千部経の転読供養をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊[あんこくじえけい]に建立を命じましたが、秀吉の死により未完成のまま現在にいたっています。 明治時代に秀吉公と加藤清正公が祀られ、豊国神社となっています。
入母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことができ、軒瓦には金箔が押してあることから完成していれば、さぞや豪華な桃山文化を取り入れた大経堂になっていたと思われます。
また堂内には、大鳥居が明治8年に建替えられた時に使った尺定規があります。
本尊の釈迦如来[しゃかにょらい]・阿難尊者[あなんそんじゃ]・迦葉尊者[かしょうそんじゃ]は、明治維新の神仏分離令のときに大願寺に移されています。
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建立中に秀吉が亡くなったため未完成というだけ天井などはそのまま骨組みが見えています。
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重要文化財級はかなり手入れがされて修復されているものが多いなかこの建物は当時を物語るものを感じさせる。
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当時の建築技術でもかなり強度はあったんですね。細い木が何本も入り組んで支えています。
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ご朱印状をもらっている観光客。
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千畳というだけかなり広いです。
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景色も瀬戸内海を望み、秀吉もさぞここからの眺めを楽しみにしていたんだろう〜
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山側からの眺めもいいです。日が差して縁側のようで観光疲れの外人さんたちが昼寝していました。
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さぁ〜次は厳島神社御社殿へ行ってみましょう〜
御笠浜からみた大鳥居もきれいです。
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テレビでよくみる朱色の回廊。社殿はとってもきれいです。
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海水はもうすっかり引けて海に浮かぶ社殿は見れませんでした。でもやっぱり圧巻!
神の島として崇められていたこの御社殿は海水がさしひきする場所にわざと建てたのですね。
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海水の引き筋がくっきりと・・
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満潮時大潮のときなど海水で床が浮き上がらないようなしくみになっていて、板と板の間に隙間を作って、波の力が抜けるようになっています。しかし常に海水にさらされていると腐りも早いのではないか・・・一日に4回も満ちては干しているなんてすごいね。
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結婚式を挙げている人もいました。
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祭礼場。たいへん眺めのよい場所に位置しています。
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能楽堂。神秘的です。
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厳島神社をでてすぐ近くに大願寺があります。その前に平清盛が植えたとされる大木がありました。
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大願寺の拝観はしませんでした。
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そして宝物館。厳島神社にまつわる宝物の品が展示されています。拝観時間20分。
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大鳥居の明治の改修のときの大木の跡。こんな太い木なんですね。やっぱり海水に侵食されても強い木を選ぶんですよね。
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宮島にはたくさんの神社がありますがツアーだと有名どころしかみれないのは残念です。
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そして次は紅葉谷公園の散策です。ここは行きたい人だけが参加します。
もちろん私は行きますよ!
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もうすっかり紅葉は終わっているので参加した人は少ない。
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ロープウェイもあるのでかなり広いのだと思う。
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すっかり落ち葉になって。落ち葉もきれいよね。
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紅葉の木が多いからもみじまんじゅうができたのかもしれない・・・そういえばもみじまんじゅうが流行ったのはB&Bというお笑い漫才だったよね。今は忘れられてきたよね・・・
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もみじ橋。下にいた鹿たちは夜は山に帰っていくのだそう〜
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やっぱり鹿ともみじは絵になるよね。
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ロープウェイ乗り場で折り返して30分ほど散策して下に降りて来ました。
老舗旅館
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岩惣さん。
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あったかくって気持ちいい散策でした。
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集合時間までまだ時間があるのでもう一度大鳥居を見に行こう〜
わぁ〜完全に潮が引いている〜
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大鳥居の下をくぐってみよう〜
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真下まできました。こんな感じになっています。
小銭が埋め込まれています。よく潮でながされないよね・・・
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真下から撮ってみました。雄大な大鳥居です。
只今3:30最大干潮は2:45ころだったからこれから少しずつ6時間かけて満潮に向かうわけだ。
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のどかな風景〜瀬戸内海はホントきれいだ。神が宿ったと信じられてきたこの神社は昔からこの風景をみてきたのですね。変わらぬ姿残したいものです。
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さぁ〜フェリーに乗って帰りましょう〜
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フェリーから夕日の宮島を望む。神秘の宮島さようなら〜
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そして帰りは広電で帰ります。1時間ほどかかるようです。
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ずいぶんハイカラですなぁ・・・路面電車と思ったからもっと古びているのかと思った。
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そして銀山町(カナヤマチョウ)で下車。歩くこと4分で今夜の宿泊先コートホテル広島に到着。
只今5:30。
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ホテルにチェックイン。休むことなく夜の広島を見に出かけま〜す。
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広島一の繁華街、八丁堀、紙屋町は活気があります。途中地下街を通り抜け・・
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クリスマスムード漂うショッピング街。
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そして20分ほど歩いて、原爆ドーム前にやって来ました。
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夜はライトアップされているときいたので是非みてみたいと思っていました。かなり怖い感じがしました。
近くにいってみると廃墟の瓦礫が落ちていたり、まだ死んだ人の霊があるよう・・・
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ここに日本の戦争の歴史が深く刻まれている・・・明日また来るけれど、今日は初めてご対面した原爆ドームには心が震えました。
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元安川のほとりのライトアップもきれいでした。
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ほとりのイタリアンレストラン。ここで夕飯にしようかと思いましたが・・・だって美味しそうなワインと生牡蠣などのメニューがあったものですから・・・しかし断念!だって今日はお好み焼きを食べるんだも〜ん
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そして帰り道、添乗員さんに聞いていたおいしいお好み焼き屋さんを見つけました!
みっちゃんです!
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只今7:00!ちょうどおなかも空いてきました。カウンターでは鉄板で焼いてる!
そしてイチオシメニュー、スペシャルそば1050円を注文!
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まずは生ビールでお疲れさん〜今日もよく歩いたね〜
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お好み焼きができるまでビールは2杯目に突入〜
やきそばが入ったお好み焼きです。マヨネーズをかけていただきます。
おいし〜い!!具沢山でボリュームたっぷり。とはいっても3つほど残してしまったのでテイクアウト用にしてもらいました。
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おなかいっぱい!さぁ〜ホテルに帰りま〜す。
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ホテルに帰ると、「八重の桜」最終回がやっていました。
そしてじっくりお風呂に入って、焼酎にもみじをいただき、就寝〜楽しかったなぁ〜
明日は原爆ドームと大和ミュージアム(呉)に行きま〜す!
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長州への旅 城下町長府〜功山寺編

みもすそ川公園を後にして、路線バスで長府までやって来ました。もうお昼近いわぁ〜どんどん気温も上がってちょっと汗ばんできたバスで20分程、この地域も城下町の街並みがたくさん残っています。
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お目当てはもちろん高杉晋作、奇兵隊挙兵した功山寺!
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下関のマンホールはふぐなんだ〜
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あったね、維新発祥の地の碑。龍馬の土佐もそうだけど、やっぱり長州は幕末熱かった・・・・
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ガイドブック片手に一人で歩いていくとこんなステキな城下町に出逢います。
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静か町に蝉の声だけが響く・・・・
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侍医、菅家の長屋門。毛利家に仕えた医者か・・・名門にすさわしい構えである。
テレビドラマJIN仁友堂もこんな感じだったかねぇ・・・
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こういう説明碑はその時読んでも忘れてしまうので必ず写真に撮ってきます。
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赤い土の塀がみごとです。すばらしい景色。いつまでも残しておきたい日本の風景です。
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古江小路。
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赤い土の塀は近くで見ると、こんなにぼろぼろに砕けています。自然で風化してしまわないかちょっと心配です。
萩焼の土の色も赤いような色が多かったような・・萩の土自体赤いからなのか・・そんな連想してしまった。
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そして長府毛利邸です
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こちらは江戸時代の毛利家のものではないようです。明治になって起工されたと書いてあります。
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それにしても立派な門構え。
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さぁ〜中に入ってみましょう〜
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広々とした和室。
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和室より庭園を望む。扇風機が写ってなければGOODでした。しかしここまで歩いてくる間に汗びっしょり〜
縁側でしゃがんで庭園をみながらひと休憩しました。
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きれいに手入れされていてやはり日本の庭は美しい〜〜
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日本の木造住宅ってよくできています。外は結構な気温なのに、ここに座っているといい風が入ってきて、自然と涼んできます・・・・
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ここで龍馬とお龍の下関での生活をご紹介しておきましょう〜
慶応3年(1867)2月10日、龍馬はお龍りょうを連れて下関に来る。伊藤家の一室「自然堂」を借り受け夫婦の生活の場とした。伊藤助太夫は、当時東の本陣伊藤家の当主で、大年寄りを務めた豪商。慶応元年(1865)に助太夫が下関で龍馬と知り合って以来、龍馬は伊藤邸に宿泊していた。
龍馬のすすめで名を「助太夫」から「九三」に改めたり、龍馬夫妻を歌会に誘うなど二人は親密な関係で、物心両面から龍馬を支援した。当時の伊藤邸は二千坪の大邸宅で、部屋数は二十を越え畳は二百を越えていたという。「自然堂」は小門(脇門)の近くにあった三畳板間の一室。部屋の後方には、蘇鉄や松の繁った庭があり、その庭を隔てて山続きに引接寺への道に出ることが出来たという。
龍馬は慶応3年(1867)2月27日から病気になり、3月下旬まで自然堂でお龍と2人の時間を過ごした。2ヵ月近くもお龍と共に一箇所に滞在したのは、龍馬の生涯でただ一度である。下関の伊藤家は、龍馬にとっても、お龍にとっても忘れ難い思い出の地になったことであろう。
龍馬とお龍は伊藤家で催された春の歌会に参加し、愉楽のひと時を過ごした。
龍馬が詠んで第2位となった歌。
 こころから のどけくもあるか 野辺ハ猶雪げながらの春風ぞ吹く
お龍の歌  薄墨の雲と見る間に筆の山 門司の浦はに そそぐ夕立
伊藤九三   あら磯の おそひかけても 春の濤なみ
この歌会には三吉慎蔵も参加していたらしい。
伊藤家に住んでいた慶応3年(1867)のある日、龍馬は稲荷町で遊び朝帰りをした。
お龍は怒るが、丁度そこに長府藩報国隊士梶山鼎介ていすけが訪問した。龍馬は即興で俚謡を賦して三味線を弾き歌った。さすがのお龍も破顔したという。
龍馬自筆の俚謡は梶山鼎介が貰い、現在は長府博物館にある。
「こい(恋)わ 志はん(思案)の ほかとやら あなと(穴戸・長門)のせとの いなりまち(稲荷町)ねこ(猫)も しゃくし(杓子)も おもしろふ あそぶ くるわ(廓)の はるげしき 
こゝに ひとりの さるまハし たぬきいっぴき ふりすてゝ ぎ利(義理)も なさけも
 なきなみだ(涙)ほかにこゝろハ あるまいと かけてちかいし山の神 うちにいるのに 
こゝろのやみぢ(闇路)さぐりさぐりて いでゝ行」
龍馬は下関で新事業を興し、かねてからの夢を実現しようと計画した。しかし「いろは丸」が沈没し、龍馬の夢は実現できなかった。
慶応3年(1867)9月20日、龍馬は久し振りに伊藤家に泊り、お龍との時を過ごした。後年、助太夫の妻はその時の龍馬の印象を語っている。
「坂本さんは、ふだんは汚い風をしておって、顔付きも恐ろしいような人だったが、この間は顔も綺麗に肥え、大変立派になっていらっしゃった。きっと死に花が咲いたのでしょう。間もなく亡くなられた。」
龍馬は9月22日、下関を出帆して土佐へ向う。これがお龍との永訣となった。
慶応3年(1867)11月15日、龍馬は潜伏していた京都三条河原町の商家近江屋の2階で、幕府見廻組(組頭佐々木只三郎)数名に襲撃され凶刃に倒れた。享年33歳。
12月2日に下関へ訃報が届けられた。お龍は、その悲報を伊藤家で三吉慎蔵から聞いた。
その後、伊藤家の奥座敷で龍馬の法事が営まれた。お龍の回顧談によれば、「・・九日目に三吉さんや助太夫やも寄り合って、あらためて法事を営みましたが、私は泣いては恥ずかしいと堪え堪えしていましたが、とうとう堪え切れなくなって、鋏はさみでもって頭の髪をふっつりと切り取って龍馬の霊前へ供えるやいなや、覚えずワッと泣き伏しました。」とある。
お龍の回顧談によれば、彼女はすでに夢で龍馬に異変が起こったことを察していたという。
「ちょうど11月の16日の夜私は龍馬が、全身朱あけに染んで血刀を提げ、しょんぼりと枕元に立っている夢を見て、ハテ気掛りな、龍馬に怪我でもありはせぬかと独り心配しておりますと、・・・」
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龍馬とお龍の下関の新婚生活もほんの短いものだったんですね。
そう感動しながら次の目的地、本日のクライマックス高杉晋作、奇兵隊挙兵の功山寺にやって来ました。
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高杉晋作回転義挙之所。
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緑多いお寺です。
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功山寺は曹洞宗の寺で、長府毛利家の菩提寺です。ここは周防・長門を支配した戦国大名大内家の最後の当主:大内義長が、毛利元就軍に囲まれて自刀した地でもあります。義長の死により西国の名門大内氏は滅亡し、この地は毛利氏の支配下となりました。
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功山寺の山門が見えてきました。
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立派な山門です。
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蝉の声が寺に響き渡っています。
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高杉晋作挙兵の像
高杉は吉田松陰より「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」と教えられていた。この教えが高杉に周囲の反対を押し切ってまで無謀な挙兵を決行させたと言われる。
挙兵決行日は実際には説得や準備に手間取り翌日にずれこんでしまったが、当初は12月14日を挙兵時期に定められていたと言われる。これは吉良邸討入と同じであり、高杉の師である吉田松陰が東北遊学の為に危険を冒して脱藩した日である。挙兵に際して自らを死を覚悟して義のために戦った赤穂浪士や初めて清水の舞台から飛び降りた師の覚悟を挙兵する自らになぞらえていたとされる。
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功山寺挙兵(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター。回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。
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功山寺に集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人だけであった。死を覚悟した高杉は白石正一郎の末弟である大庭伝七に遺書を託して、功山寺の三条実美ら五卿に「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をし、この挙兵が私利私欲からなるものでないと断った上で、下関新地会所を襲撃し占拠した。そして18名からなる決死隊で三田尻の海軍局に攻め入ると、「丙辰丸」など軍艦3隻を無血にて奪取した。
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この挙兵の報が広まると井上聞多・品川弥二郎・山田顕義・河上彦斎らが呼応し、付近の領民による義勇兵も集結した。勢力を増すと日和見をしていた奇兵隊の山県狂介や藩の諸隊も立ち上がり高杉に協力した。
後に大田・絵堂の戦いで俗論派の藩の正規軍と対峙し、反乱軍がこれを破ったことで、藩論は倒幕に統一された。
吉田松蔭の教えを貫いた若き志士。若くしてこの世を去ってしまう無念を人々は今でも忘れていません。
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そして功山寺の隣に長府博物館があり、その隣に万骨塔がありました。
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有名・無名を問わず御霊を祀っている。
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三吉慎蔵の石を探しました。
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武市半平太、龍馬もあった
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こちらが長府博物館。
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功山寺敷地内に毛利家墓所を発見。
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ひと気のないお墓を歩くのはちょっと怖いけれど、こんな看板が・・・
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三吉慎蔵のお墓です。正面ではなかった
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功山寺も充分見学できて大満足。さぁ蛍の里の川沿いを帰りましょう。
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真夏の気温になってきました。すてきな城下町の街並み。
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ステキなカフェを発見!桂のさと。ここでひと休憩しましょう。
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テラスもいいけど、ちょっと日差しが強すぎだわ。
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外のお庭を見ながらお昼でもいただきましょう。
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涼しくてホッとします。
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急にビールが飲みたくなって、頼んじゃいました。
グラスでくるのかと思ったら瓶でした。持ってきた女の子に私ひとりで飲みきれるかしら・・と言ったら、私も飲んであげましょうか・・・と笑いながら言われました。まぁ・・なんて愉快な子なんでしょう・・・暑い中歩いてきたので、その女の子との会話にほのぼのとしてしまいました
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そして門司の名物「焼きカレー」!今回門司では食べられなかったのでここでいただいちゃいましょう〜
こちらのはチーズ焼きカレー900円
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あっつあっつでとろりとしたチーズがビールに合いますね〜とってもおいしかったで〜す
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ちょっと遅いお昼になってしまいましたが、ビールもいただいてほろ酔いでいい気分〜
さぁ〜バス停まで歩いて帰りましょう〜
それにしてもピカピカのいい天気だね〜
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バスで唐戸まで戻ってきました。旧秋田商会ビル。
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カモンワーフでお土産をゲットして連絡船を待ちます。さぁ〜下関ともお別れ。今回3回目の船です。楽しかった〜またきっと来るね。いい思い出ありがとう〜これから門司港駅より小倉まで電車で行き、小倉から高速バスで北九州空港へ向かいます。
たくさんの思い出をいっぱいつめ19時50分、羽田着。おつかれさまでした
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長州への旅 巌流島〜壇ノ浦古戦場編

3日目の朝で〜すお天気は曇りってとこかなぁ・・・・
昨日は一人でコンビニで買ってきた、ビールとつまみを食べながらテレビをみて過ごしました。
一人になんかちょっと不安でなかなか眠ることができませんでした・・・・しかし結構朝の目覚めはバッチリ寝れないといいながら以外としっかり寝たのかも
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この門司港ホテルもいいホテルですね・・・・窓から見える夜景もステキでした。
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前方に、旧三井倶楽部の建物も見えます。
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9時チェックアウト!手荷物はホテルに預ってもらいさぁ〜今日最終日の目的地へ向かいましょう〜
門司港ホテルさんお世話になりました
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あまり暑くもなくいい感じです。
ホテル前にある旧大阪商船の建物。昨日は薄暗かったけれど朝はこんな感じです。
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ちょっと異国みたいでしょ・・・
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1階は展示スペースになっています。
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旧門司三井倶楽部。
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林芙美子も門司出身なんだね・・・
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旧門司税関。
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さぁ〜ホテルの周りを1周してマリンゲートもじへ行きましょう〜
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また連絡船に乗って今日は巌流島へ行きます。
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1時間に2本のペースで運行されています。料金は往復800円のところ今の時期半額の400円になってました。
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さぁ〜わかば号に乗船〜
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お客さんは私を含めて2名。乗船中アナウンスが流れて巌流島の説明をしてくれます。巌流島は無人島であること、トイレはありますが、売店その他、人がいないので、十分お気をつけくださいとのこと・・・・
1時間に2本連絡船がくるけれど、万が一事故があったら無人島にとりのこされてしまうのよね・・・
一抹の不安をいだきながら前方の乗客のおじさんを眺めてみた・・・おじさん船のなかから一生懸命写真をとっていた・・・この人もひとりで来るくらいなんだから好きなんだろうなぁ・・・と思った・・・いやぁ〜私も同じようなものか・・
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ここは関門峡。かつて龍馬も幕末、幕府を相手に高杉晋作らと戦った場所なのである・・・・
大砲が飛び交ったこの海峡。この波に揺られながら龍馬の気持ちを想像するとまた一段と興奮してくるなぁ・・
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さぁ〜着いた。巌流島上陸だぁ〜おじさん先にさっさと歩いて行った。
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巌流島の案内板。現在の巌流島は昔の7倍は敷地面積があるそうです。
昔は案内板の濃く書かれた部分しかなかったようだ。観光地として埋め立て整備して現在のような形になったよう・・・もとの形が船に似ていたので、別名舟島とも呼ばれている。
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そして龍馬のゆかりの地でもある巌流島だ。
お龍が明治32年(1899)に語った思い出話。「千里駒後日譚拾遺せんりのこまごじつたんしゅうい」
「・・すぐ向うに巌流島といって仇討ちの名高い島があるのです。春は桜が咲いて綺麗でしたから、皆なと花見に行きました。ある晩龍馬と2人でこっそりと小舟に乗り、島へ上がって煙火はなびを挙げました・・」
慶応三年(1867)龍馬とお龍が本陣伊藤邸に滞在していた頃の話。(お龍は「長府にいた時分」と語っている。)
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龍馬がお龍ときた場所がホントかうそかは定かではありませんが、とりあえず本当であったと思いながら歩いてみましょう〜
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きれいに整備されて遊歩道からの眺めも最高です。この巌流島は門司(福岡)と下関(山口)のどちらに属するのでしょうか・・・・その答えは下関であります。ちょっと泳ぎが得意な人だったら泳いで渡れちゃう距離のこの島。
龍馬が来たころも小舟に乗って二人無人島に花火を上げにきたなんてちょっとロマンチックじゃな〜い
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巌流島の名前の発祥の宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の場はさらに有名ですね。
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歩くこと5分!あった〜宮本武蔵と佐々木小次郎が戦ってるぞ〜
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宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の像です。
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かっこいいぜよ〜〜〜関門峡をバックに戦う武蔵と小次郎。
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この島で、慶長17(1612)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになりました。
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巌流島にたくさん咲いているこの植物はなんだ??アロエのようで南国風〜
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武蔵と小次郎のお話しが書いてあります。
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島を1周しても15分くらいでしょうか・・・キャンプ場のような場所もありました。
この島で出会った人はさっき一緒に船に乗ってきた人以外に家族づれ2組でした。この島の最終便に乗り遅れないようにしないとね。。。。
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さぁ〜帰りの船待ち。門司港行きに乗って帰ります〜
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そして門司港に着いてから潮風号というトロッコ列車にのって関門トンネル入り口まで行きます。
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途中のトンネルの中で天井がイルミネーションされます。
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トロッコ列車も5分ほどで着き、関門橋の真下まで着ました。
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関門トンネル人道まで海岸線を歩いて行きます。
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この海岸線の景色がまたきれいなんです。関門橋の下を大きな船小さな船が渡って行きます。
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雄大な関門橋。
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西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります、また、瀬戸内海の入口に位置する地理条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史を刻む舞台となっています。
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関門トンネル人道口につきました。エレベーターで地下50メートル下に行きます。
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地下はヒヤッとするねぇ〜
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関門トンネルは昭和の戦争前から工事がはじまり途中戦争で中断したものの、昭和42年に開通。そんな古い歴史を持っています。老朽がひどくたびたび補修工事しているようです。
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さぁ〜歩いてみましょう〜この人道の上に自動車道が走っているせいか、天井でゴーゴー音がします。それとこころなしか、揺れているように感じます。それと脇から水がチョロチョロ流れている音がします。
ちょっと怖いので小走りになってしまいました。
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そして福岡県と山口県の境界にやってきました。ここは水のなかの境界です。
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歩くことはや歩きで7・8分。山口側に出られました。
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出たすぐのところにみもすも川公園、壇ノ浦の古戦場跡があります。
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壇ノ浦だよ〜〜
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寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。最期を覚悟した平知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。なお、この戦いにおいて義経は平教経の攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたといわれています。
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大河ドラマ「義経」の撮影の記念の碑もありました。タッキーの手形だ。
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壇ノ浦の戦いにより平治が滅亡鎌倉時代の武家社会が成立していくんだよね。
詳しくは壇ノ浦の戦い(ウェキより)
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そしてとなりに馬関開港100年記念の碑。
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この壇ノ浦は歴史上様々な出来事がありました。馬関(下関)戦争がそのひとつです。
下関戦争は、1858年(安政5年)に江戸幕府が欧米列強(米 英 仏 蘭 露)と異勅で安政の不平等条約を締結してしまったことに対する抗議活動であった攘夷運動(「即今攘夷」「破約攘夷」)が、西南雄藩の長州藩において1863年(文久3年)5月10日 (旧暦)(実際の砲撃開始は翌日にずれて11日)から1864年(元治元年)8月7日 (旧暦)にかけて欧米列強に対する攘夷戦争という正攻法の形で表面化したものである。
長州藩は孝明朝廷の叡慮・徳川幕府による攘夷の勅命の奉勅・徳川幕府からの幕命(文久3年(1863年)5月10日 (旧暦)を攘夷実行の日とする)を受け、関門海峡を通過する外国船への砲撃を実施した。戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、米英仏蘭に対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。
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前段: 1863年(文久3年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた。約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。
後段: 1864年(元治元年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は、長州に対する懲戒的報復措置をとることを決定し、仏蘭米の三国に参加を呼びかけて、艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は8月5日〜7日に馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後、欧米列強に対する武力での「攘夷」を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化してゆくことに積極的になる。さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、1866年(慶応2年)1月21日 (旧暦)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。
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その時代いかに長州が勢いに乗っていたかがうかがうことができる・・・それによって4カ国に負けてしまうけれども、その魂が倒幕へと進む大きな原動力になるんだよね・・・すばらしき長州よ〜
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大きく歴史が動いた壇ノ浦。ここも忘れないよう目に焼き付けたよ・・・
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3日目最終目的地高杉晋作功山寺「長府へ」は次回です。
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長州への旅 門司港レトロ散策編

ここが下関海峡だよ〜馬関海峡といったほうがわくわくするんだけど・・・・・
ここが様々な歴史の舞台となった場所です。
下関と門司をむすぶ関門橋。昭和48年11月14日に高速道路(高速自動車国道)として供用開始されました。全長が1,068m、海面からの高さは約61m。ときに10ノット(時速18km)を越す海峡の潮流をまたぐダイナミックな姿は、まさに関門のシンボルです。 関門海峡の一番狭い箇所、早鞆の瀬戸に架けられています。
その海の地下には関門トンネルもあります。明日は海の下を福岡県から山口県まで歩いてみたいと思います。
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門司港駅。わぁ〜レトロがしびれるわぁ〜
大正3年(1914)2月1日に旧門司駅として開業。左右対称の駅舎はネオ・ルネッサンス様式の木造建築で、昭和63年に鉄道駅舎では初の国の重要文化財に指定されました。駅前の広場には噴水があります。夜はライトアップされ、美しい景観を創りだしています。
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駅舎です。しびれる〜レトロがいっぱいだぁ〜
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かつて、明治から昭和初期にかけ栄華を誇った街、門司。近代日本を支えた港町として歴史に名を刻んでいる。

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明治二十二年に石炭などを扱う国の特別輸出港に指定され、貿易港としての地位を確立した門司は、その後、日清戦争、日露戦争の勃発と共に、ますます栄えていくことになります。中国大陸が近いこともあり、軍需品や兵士たちを送り出す重要な港となり、米、兵器、軍服などの品物を扱う商業が目覚ましく発展していきました。大正三年には門司駅新駅舎(現在の門司港駅)が完成。この年の八月に日本は第一次世界大戦に参戦。十一月には中国の青島を攻略し、門司は大戦景気に湧きたちました。その後、欧州航路の寄港地にもなり、港は莫大な利益を得ていくことになります。大陸貿易も盛んで満州などへの貿易船、大陸航路の客船で大変にぎわいました。この頃には、日本三大港(神戸、横浜、門司)の一つとして数えられ、重要な国際貿易の拠点となっていました。
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大商社や銀行が先を争って門司に支店を出そうとし、地下が暴騰したのもこの時期の事です。一坪八十円、現在の四百万円以上まで騰がったことを考えると、どれだけ門司が栄えていたか容易に想像できるでしょう。
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そして、このように、終戦前までは非常に栄えていた門司だが、終戦とともに大陸貿易が縮小され石炭も減り、港として低迷し次第に衰退していくことになります。そして、現在では『門司港レトロエリア』として生まれ変わり、年間200万人以上の人が訪れる観光地として、新たな歴史を歩もうとしています。
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待合室の天井がとっても高いねぇ。
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箱のような椅子。机も昔のまま残されている。
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そしてこの灯りもいいでしょう〜駅舎内のあらゆる箇所に大正ロマンを感じます。
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海峡ドラマシップにも行って見たい。
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改札口。さっきゆりさんを見送った場所。
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これはいったい何の部屋でしょう?
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照明の上天井の彫り物。
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駅長室。
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そしてこれが門司港で有名なトイレです。
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門司港を利用する人の大切な水。今でもきちんと残っています。
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トイレ前の手洗い鉢。青銅製の当時としては立派な鉢です。すごく凝っていますよね。
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駅舎内もしっかり見学。さて外を回ってみましょう〜駅をでてすぐに日本郵船とかいてあるビルにコンビニがあります。その裏手が今日宿泊する門司港ホテルなのでチェックインの前に明日の朝食をここで仕入れましょう。(今日の夜のビールもね)
門司港駅の前にある広場のような敷地は本来噴水があがっているところですが、今は節水なのでしょうか・・ちょっとさびしいよね。
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門司港駅も少し日が暮れてオレンジ色になっています。もっとライトアップされるまで外をうろうろしましょ。
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左側の建物は、旧門司三井倶楽部。2階にはアインシュタインメモリアルルームなどもある。
大正時代アインシュタインもここに宿泊したようです。
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ベイエリアに門司港ホテルは建っています。
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奥の細長い建物は、門司港レトロ展望室。
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門司港ホテル側からみた駅に向かう道。左が旧大阪商船
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旧大阪商船。レンガ風木造2階建ての建物。八角形の塔と鮮やかなオレンジ色の外壁が特徴です。
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なんだか大正時代にタイムスリップしたよう・・・というかここは異国のよう・・・そしてここに一人で立っていることに不思議な気分だわ。
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ノスタルジックな気分にたっぷり浸っています。
ガス塔もすっごくステキ〜
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明治の後半に日本にもガス塔が入ってきたんですよね。その走りですかね。
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門司はバナナの叩き売りの発祥の地。バナナマン見つけました!!
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だんだん日が暮れてきました。
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旧門司税関。きれいなオレンジ色のレンガの建物。
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そしてここは、ブルーウィングもじ。全国初の歩行者専用のはね橋。一日数回はねが上がります。
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ブルーウィングから門司港ホテルを望む。わぁ〜ロマンチックだわぁ〜
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関門橋も薄暗くなってきました。
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さぁ〜門司港ホテルにチェックインしましょう〜今晩お泊りの部屋は街側で9階です!
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最後に門司港駅のライトアップ。洋館が立ち並ぶ歴史ある港町門司。
今日はノスタルジックな夢をみそうだわぁ〜
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明日3日目は巌流島と関門トンネル歩いて横断と城下町長府に行きます。
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長州への旅 長門 仙崎 金子みすずを巡る編

長州旅行第2日目。朝の露天風呂にも入り目覚め爽快〜
お天気は霧がかかって少し雨が降っている・・・・
でも2,3日前の猛暑がうそのように涼しい朝です。
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ここは静かな町でお店がありません。昨日の夜のビールを買いに行ってくれてありがとう〜ゆりさん
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裏のほうには渓谷があり遊歩道もあるようです。
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さて朝食は個室のお座敷に通されました。
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純和食の朝食です。
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自家製の漬物がとってもおいしいです。
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そして9時半〜チェックアウトをして旅館前のバス停から長門市駅をとおり、仙崎駅までバスで行きます。約25分くらい。青海島も近く、日本海の景勝地です。お目当ては震災のときのCMでも有名になりました。金子みすず記念館です。無人の駅で、奥に金子みすずが見えますね。
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駅に入るとこんな金子みすずのモザイク画が・・・目をかすめてみるとよくわかるよ・・・
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近くでみるとこんなコメントが寄せられています。
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無人駅ってなんかさびしいよね・・・でもちゃんと利用している人はいるんだよね。
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ホームにたつと金子みすずがいました。
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みすず潮騒号といって特別列車が走っています。本当はそれに乗って下関まで行く計画を立てていましたが、あいにく本日は点検日で運休でした。日本海の絶景を望みながらはしるみすず潮騒号に乗れなくて大変残念です
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ホームはドラマにでもでてくるような風景です。
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みすずのふるさとを感じるペインティングがされています。昔は鯨業も盛んだったんだってね・・・
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さて金子みすず記念館に行ってみましょう〜ここがみすず通り。
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詩人の金子みすヾは明治36年、この仙崎村に生まれている。彼女は大正末期にいくつかの詩を発表し、西條八十に『若き童謡詩人の巨星』とまで称賛されながら、26歳の若さで世を去った。
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没後その作品は散逸し、幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなったが、童謡詩人・矢崎節夫の長年の努力により遺稿集が見つかり、出版された。その優しさに貫かれた詩句の数々は、今確実に人々の心に広がり始めている。
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仙崎郵便局は金子みすず記念館の目の前にあります。ここにもモザイク画があります。
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金子みすず記念館 本館のほかとなりの金子文英堂と行き来できます。
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こちらが金子文英堂といって金子家が営んでいた書店を再現した建物。2階にみすずの部屋などがあります。
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みすヾの父、金子庄之助は彼女が3歳の時に死んでいる。そして2歳下の弟の正祐が叔母(母の妹)の婚家先に養子に遣られる。やがてその叔母も死んで、その後釜にみすヾ母、ミチが入ることになる。みすヾが16歳の時であった。

 母が再婚した上村松蔵は下関で手広く書店を経営していた。女学校を卒業したみすヾも下関に出て、上村文英堂書店を手伝うことになる。先に養子に来ていた正祐とは姉弟の血縁関係だったが、松蔵の意向でこのことは正祐に知らされていなかった。

 正祐は22歳のとき徴兵検査の書類を見て、自分が養子であることを知ったが、それでもまだ自分が誰の子か知らされずに、みすヾのことを姉だとは知らなかった。そして、みすヾと一つ屋根の下で暮らすうちに、彼女への思慕を募らせていく。正祐の夢はいずれ東京に出て作曲家になることだった。そして、みすヾの童謡に曲をつけて発表することを夢見ていた。

 みすヾ自身も童謡詩を作り始めた自分の芸術的才能の最大の理解者であった正祐に、精神的同志愛のようなものを感じていた。こうした中で、みすヾの結婚話が持ち上がった。相手は店の番頭格の宮本という男だった。

 松蔵はいずれ店は正祐に譲るものの、その間のつなぎとして、しばらくこの男に店を任せようと思っていた。そのための政略結婚であり、またみすヾと正祐の仲を引き裂くための意図もかくされていた。

 この結婚をみすヾは望んでいなかった。相手の男はおよそ文学には縁のない、そして使用人の間でも評判の悪い陰ひなたのある、人格的にも尊敬の出来る相手ではなかった。しかし、家のため、正祐のためにと、母や養父から頼まれてむげにも断ることは出来ない。すでに23歳になっていた彼女は、当時とすればもう適齢期をはずれかかっていた。

 正祐はこの結婚に大反対だった。みすヾを前にして、「父やお店の犠牲になって結婚することはない。好きな人がいるなら、その人と結婚すればよい」と涙ながらに訴えた。

 これに対するみすヾの答えは、「仕方がないの」というものだった。さらなる正祐の追求に、「すきな人はいるのよ。その人は、黒い着物を着て、長い鎌を持った人なの」と答えた。そして、「テルちゃんと僕は姉弟ではないのかい」という正祐のせっぱつまった問いに、黙ってうなづいたという。
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大正15年2月17日、みすヾは宮本と結婚した。ところが、4月4日、正祐は置き手紙を措いて家出をする。正祐の家出をみすヾの夫との不和だと考えた養父の松蔵は宮本を激しく叱る。宮本の結婚後もやまない派手な女遊びが怒りに火を注いだ。

 松蔵はみすヾを離婚させようとしたが、みすヾは自分がすでに妊娠していることを知り、夫と一緒に上山文英堂を出ることを選ぶ。こうして強引な政略結婚は、松蔵にとっても不如意な結果をもたらした。しかしこれは、その後みすヾが嘗めなければならなかった辛酸の、ほんの序の口に過ぎなかった。

 みすヾにとって救いは、彼女を励ます正祐の書簡が次々と届いたことだろう。正祐はみすヾの天才を信じて疑わなかった。西条八十を別にすれば、彼はみすヾの詩の最大の理解者だった。昭和2年1月19日付きの彼の手紙の一部を紹介しよう。

「いかに私が毎月『愛誦』の金子みすヾの謡をかじりつくようにして読み、如何に感嘆し、如何に人生的意義を感じ、如何に・・・今では一々の象徴的意味、ある場合は作者の予期しないような意味を見出して、よろこび、かつ頭をさげる私です。たとえば『裏水の水たまり』にうつる無限の空の法悦味や、小さな蜂の中に見える神々の姿や、さては又、麦になれない黒んぼうに、私や、あなたの姿を見、『せめてけむりは空高く』のいささかの希望に涙ぐみ・・・・」

 みすヾの詩がこのように大量に残されたのは、彼女が死に臨んで、弟の正祐に三冊のノートを託したおかげである。そこには、彼女が20歳から25歳までの間に作り続けた500編余りの詩が含まれていた。
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金子みすヾが愛児を残して、自ら命を絶ったのは、西条八十との出会いをはたした3年後の、昭和5年3月10日のことだった。地元の防長新聞は次のように報じている。

「下関西南部町上山書籍店同居人大津郡仙崎町生まれ金子てる(28)は十日午後1時頃カルチモンを飲み自殺を遂げた。てるは同店員宮本某と内縁を結んでいたが捨てられたのを悲観したためである」

 この新聞記事は間違いを犯している。彼女は28歳ではなく、26歳であった。そして、夫の宮本啓喜とは正式に結婚し、離婚話も正式に進んでいた。離婚に際して、彼女は娘を手元に引き取り、自分で育てたかったが、夫は彼女に対するいやがらせとしか思えないほど、娘を渡すよう再三要求した。

 彼女は夫が娘を連れに来る前夜、睡眠薬を飲んで自殺した。自殺の原因は夫に捨てられたことが原因ではなく、夫に愛する娘を奪われることへの抵抗だった。(金子みすずの世界より)
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みんなちがって みんないい 今でこそこんな言葉は当たり前のように聞こえるが、この言葉を大正の女性が言ったということを考えるとすごいと思えてくる・・・・
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記念館をでて海のほうにむかうとみすずが眠るお寺があります。
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仙崎の海岸にでました。ここにもみすずの詩碑がありました。
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みすずがみていた海・・・・みすずの代表作 大漁

   朝焼け小焼だ
   大漁だ
   大羽鰮(いわし)の
   大漁だ。

   浜は祭りの
   ようだけど
   海のなかでは
   何万の
   鰮のとむらい
   するだろう

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女ふたりみすずの詩を読みふける・・・・
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   お魚

   海の魚はかはいそう

   お米は人に作られる、
   牛は牧場で飼はれてる、
   鯉もお池で麩を貰ふ。

   けれども海のお魚は
   なんにも世話にならないし
   いたづら一つしないのに
   かうして私に食べられる。

   ほんとに魚はかはいさう。

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私の大好きな詩

   私と小鳥と鈴と

   私が両手をひろげても、
   お空はちっとも飛べないが、
   飛べる小鳥は私のやうに、
   地面(じべた)を速くは走れない。

   私がからだをゆすっても、
   きれいな音は出ないけど、
   あの鳴る鈴は私のやうに、
   たくさんな唄は知らないよ。

   鈴と、小鳥と、それから私、
   みんなちがって、みんないい。

すっかり金子みすずワールドに酔いしれて・・・・・

みすずの人生・・・なんとすさまじい人生だったんだろう・・・
みすずの才能を根底からそぎとられてしまった想いを考えると胸がつまってしまう・・・
この時代の才能ある女の生き方を考えるとみすずは自殺を選ばざるをえなかったのか・・・
歴史の作家をみると川端康成、太宰治、芥川龍之介など・・・文学への追求への果ての結末だったとすれば、まさしく本望だったのかもしれない・・・そういう思いでみすずの詩を読んでみると、また複雑な気持ちが湧き上がってくる。そして今も人の心をとらえてやまないということに、みすずの偉大さがあるのではないだろうか・・・


そして長門湯本駅にもどり長門市駅から厚狭駅まで代行バスに乗り換えです。
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去年の台風で、線路が破壊されてしまい、その路線は運行されていないそうです。
その間代行バスで厚狭駅まで行ってくれます。その運転手さんのやさしいこと・・・・
だいたい乗ってる人が私たちを含めて3名。私たちは一番前の席に乗り、運転手さんと世間話・・・
というより、運転手さんはガイドさんのように土地の説明をしてくれるんです。本当にこちらに来て親切な人にばかり出会いますね・・・・
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厚狭駅から下関までは山陽本線に乗ります。
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30分ほどで着きました。ここが下関です!!唐戸桟橋です。向こうには唐戸市場も見えます。
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下関といえば、ふぐですよね。こちらでは縁起よく「ふく」といいます。
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ここが関門峡か〜〜
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向こうにみえるのが海響館の水族館です。
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ここにも龍馬が・・・・巌流島は明日行きま〜すゆりさんの顔は隠しておきますね・・・・
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6時40分の関門連絡船までここで一杯打ち上げしましょう〜ゆりさんとは連絡船で門司港にいったらお別れです。奇兵隊という名前に惹かれました〜
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おつかれさま〜乾杯〜下関はくじら、はも、あんこうが有名〜もちろんふぐ(ふく)刺しもいただきました。
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だんだん日が暮れてきました。門司港までは連絡船でたったの5分。
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門司港〜唐戸間は1時間に3本くらい。390円です。関門峡は距離は短いですが、結構潮の流れがすごく、結構揺れますね。
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そしてマリンゲート門司に到着!そこからすぐ近くに門司港駅があります。
ここでゆりさんとはお別れ・・・・・2日間楽しかったね・・・いろいろ大変お世話になりました
ふたりボケ同士でどうなることかと思いましたが、どうにか2日間の日程を無事終えることができました。本当にありがとうございました。今回ゆりさんとは初めての旅行でしたが、これから年1回はこうやって女二人旅したいね
お疲れ様でした。気をつけて帰ってねぇ〜
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2日目は門司港の夜景を次回アップします。
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