カメラを持って出かけよう〜

カメラと旅と歴史が大好きで、主にひとりで写真を撮りに出歩いています。

歴史散策

開国のまち下田 ペリーロード 

6月10日梅雨の晴れ間を狙って今日は思いつきプチ旅に行ってきました〜
前日、明日の天気予報を見ているとなんと晴れマーク!日帰りでここまで行けるんだろうか迷ったが、決行〜
今日はたくさんの電車を乗りこなして出かけたいと思います。
まずは7:16発、新横浜より新幹線こだまに乗ります。
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700系 熱海まで各駅に止まります。
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熱海着。ここから7:55発JR伊東線に乗り換え。伊豆急下田まで1時間25分ほど。
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JR伊東線は初めて乗ります。向かい合う席もあり、ローカルを感じます。
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いい天気〜気持ちいいぃ〜海が見えてきました〜
1時間20分の乗車も飽きさせない景色が続きます。
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海沿いを走る電車の旅も心の洗濯です。
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伊東から伊豆急に変わります。伊豆高原で前3両だけが下田まで行きます。
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伊豆急下田駅到着!9:20分
ホームには龍馬さんがお出迎えか・・・気分は一気に高まります〜
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10:00からの観光協会のボランティアガイドさんの予約をして。帰りのキップを買って。駅をうろうろ・・
すると京都に行ったとき一緒に写真を撮った下田龍馬会の男性を見かけました。
その人は観光客が駅につくと待っていたのか下田のガイドをなさっているようでした。下田に尽力している人なのですね。
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常夏の島のよう〜
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さすが開国のまち、黒船もあります。
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10:00下田観光に出発〜ボランティアガイドさん1名他の観光客私を入れて3名。約2時間かけて下田の町を歩きます。
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資料片手にもう定年をずいぶん過ぎたおじさんがガイドしてくれます。いやぁ〜それにしても細かい下田の歴史の話しをしてくれます。さすがここでしか聞けない話しもありました。歴史好きには最高です。
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伊豆急下田駅から南へ2分程歩くと、稲田寺(とうでんじ)というお寺があります。このお寺には、下田の歴史に登場するお吉(おきち)という女性の恋人である鶴松という人のお墓があります。
お吉は当時江戸幕府に命じられ、下田に黒船で来訪していたアメリカの総領事、ハリスに仕えた芸妓さん。仕えた期間は3日間ほどと言われていますが、当時の人たちからは唐人(とうじん)として偏見の目と罵声を浴びせられたようです。お吉は苦悩の生涯を送って、51歳の時に下田の稲生川にて溺死してしまった悲劇の女性です。
「唐人お吉」。映画や本にもなっているので、ご存知の方も多いのでは?
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また稲田寺には、下田市の指定文化財である阿弥陀如来坐像も安置されています。
像高208cmもある大きな仏像で、当初は漆箔が施されて金色に輝いていたと言われています。やや形式化した造形から平安時代末期の作品と考えられています
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そして安政の大地震で起きた津波によって犠牲になったひとの供養塔「つなみ塚」があります。
安政の大津波では下田の港に停泊していたアメリカ艦隊(開港を迫っていたいわゆる黒船なども)陸に打ち上げられたそうです。
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唐人お吉の夫鶴松のお墓。
お吉は17才で下田奉行所支配頭取・伊差新次郎に口説かれて異人(ハリス)の侍妾(じしょう)となり、大きく人生が変わりました。ハリスに仕えた期間は、ほんの僅かでしたが、お吉は、「唐人」とののしられ横浜に流れ、後に下田へ戻って小料理屋「安直楼」を開きましたが、酒に溺れて倒産。明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。この事件は、幕末開国に伴う一悲話として、小説にもなり、今では舞台での上演などもされています。
本名:斉藤きち
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以下「宝福寺書」より抜粋。お吉の説明文です。
 お吉は本名を「斉藤きち」といい、天保12年11月10日、愛知県知多郡内海(うつみ)に、舟大工市兵衛の次女としてこの世に生をうけました。4歳のとき家族が下田に移り住み、14歳で芸妓(げいこ)となりました。新内明烏(しんないあけがらす)のお吉とうたわれるほどの評判と美貌でしたが、それが奉行所の目にとまるとこととなり、17歳の時、法外な年俸と引替に心ならずもアメリカ総領事タウンゼントハリスのもとへ侍妾(じしょう)として奉公にあがることとなります。その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業(かみゆいぎょう)を始めますが、ほどなく離別。さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業しますが、2年後に廃業しています。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶ってしまいます。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕でした。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」(しゃくじょうかんに)を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく墓石も寄進され現在に至っています。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているようです。
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そして次は宝福寺。龍馬の顔が見えてきました。ここはわたしも知っていました。
土佐藩主山内容堂と勝海舟謁見の寺。(龍馬が脱藩の罪を解かれた寺)
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文久三年(1863年)一月十五日、山内容堂は宝福寺に滞在。
当寺を訪れた勝海舟の請を容れ、坂本龍馬の脱藩を免罪。
宝福寺は龍馬の維新回天の飛翔の原点となった。
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文久3年龍馬29歳。龍馬が土佐藩を脱藩して江戸に出て勝海舟のもとで海軍操練所の塾頭をしていた頃の話しである。
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他にも
1.永禄2年(1559)11月、信長の圧迫をのがれ、本願寺第11代顕如並に法孫釈了善、真言を改め開基。
2.嘉永7年(1854)日米和親交渉にあたり、日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれた。
3.唐人お吉菩提寺、お吉記念館(西ドイツ、英国に博物館として登録されている)
このような歴史があるお寺です。
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ソテツの木が南国らしい。
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福山さん似の龍馬の像
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そして宝福寺お隣の下田文化会館(下田小学校跡)下田小学校はしろなまこ壁の小学校だったそうです。
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ここにもなまこ壁が・・・
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そしてその先、吉田松陰拘禁の跡。松陰先生が黒船への密航失敗拘禁された場所です。
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「世の人はよしあしごとも いはばいへ 私が賤が誠は神ぞ知るらん」 松陰先生が詠んだ句です。
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欠乏所跡。日米和親条約により「航海上必要な欠乏品」を供給したところです。現在のスーパーみたいなところだそうです。
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なまこ壁が美しい。
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現在はカフェになっています。
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さて次は了仙寺へ。日米和親条約の下田条約の調印が行われた寺です
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★ペリー来航からの流れ
ペリー日本来航
1852年ペリーは当時のアメリカ大統領フィルモアから東インド艦隊司令長官を命じられ、同年11月24日アメリカ東海岸ノーフォークを出航し、日本に向かいます。当時アメリカではカリフォルニアに金鉱が発見され、西海岸が開拓され、さらに捕鯨業がさかんになってきたため、太平洋の重要性が高まっていました。北太平洋の要衝に位置する日本との国交はアメリカにとって欠かすことのできないことでした。ペリーは当初、12隻の大艦隊で日本に圧力をかけるつもりでした。ところが、故障する船や予定の立たない船が続出し、さらに旗艦として考えていた最新鋭の蒸気船は完成が遅れ、出航に間に合わなくなってしまいました。ペリーは仕方なく海軍最初期の蒸気船ミシシッピー号に乗り、日本に向かいました。アメリカ東海岸から大西洋を南下、アフリカの喜望峰を回り、インド沖から東南アジアを通過し、中国広東に寄港し、蒸気船2隻・帆船2隻からなる艦隊を編成し、日本に向かいました。そして途中琉球・小笠原諸島を経て江戸湾三浦半島の浦賀沖に来航したのは1853年7月8日のことでした。
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日米和親条約
久里浜で日本側に日本に開国を提唱するアメリカ大統領の親書を渡したペリーは翌年の再来航を約束して、いったん中国上海に向かいます。そして再び浦賀に来航したのが、1854年の1月。そして3月31日(嘉永7年3月3日)には日米和親条約が横浜で締結されます。その中で決まったのが、下田と函館(当時は箱館)の開港(箱館は翌年の開港)とアメリカ船の日本における物資の確保とアメリカ人の安全の保障などです。
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ペリー下田来航
日米和親条約により開港された下田には、ペリー艦隊の船が続々と入港してきました。ペリーを初めとするアメリカ人たちは下田湾の美しい風景に簡単の声を上げたと言われています。時は春、海から見た桜の満開の下田港はさぞきれいだったことでしょう。またペリーは下田の町がきれいに整備されているのに驚きました。特にペリーが感心したのは、下水が川に直接流れ込まないように川の脇に下水溝が作られていたことでした。日本でしかもこのように小さな町で、西洋の中心都市にあるような下水溝の設備があるなど、彼らの常識では考えられないことでした。
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●日米下田条約と了仙寺
横浜で締結した日米和親条約では細かい点がほとんど決められていなかったため、下田に上陸したペリーは早速日本側と交渉に入りました。その場所となったのが了仙寺です。十日間にわたる協議の結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)、日米下田条約(日米和親条約付則13ヶ条)が結ばれました。この中で、アメリカ人は下田の街中を自由に歩く権利、すなわち「遊歩権」を与えられました。これは一種の交流権ともいえるもので、黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験しました。
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そしてすぐお隣にある長楽寺です。これは良く知られていませんがロシアも日本に開国を要求していたのですね。日露和親条約の調印をしたお寺です。
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ロシアの全権代表はプチャーチン。
千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする。
樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする。ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定)ロシア領事を日本に駐在させる。裁判権は双務に規定する。
片務的最恵国待遇。このような条約が交わされました。
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そして情緒あふれるなまこ壁の町並みを歩きます。
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そしてあこがれのペリーロードへ。
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あじさいがきれいに咲いています。
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昔の建物がきちんと残されています。
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これもステキですねぇ。
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そして海がもうすぐそこに。大砲の記念碑もあります。
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下田港に出ました。
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寝姿山もきれいに見えます。
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これがペリー上陸の碑。
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日本最初の開港地
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さぁ〜来た道を戻ります。下田の町並みのシンボルなまこ壁の家が目に付きます。
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旧澤村邸
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下田はいたるところからお湯が湧き出ています。
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ペリーロードを逆戻り。
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静かで本当にいい町並みです。
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よるにはガス灯にあかりがついてすてきでしょうね。
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そして了仙寺宝物館 黒船美術館に行ってみましょう。
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日本人が描いた絵巻物や肉筆画,かわら版、古地図など3000点をこえる黒船、開国に関するコレクション所蔵しています。
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そして開国博物館にも行ってみました。ここにもたくさんの下田の歴史が残されていました。大満足!
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ニューサマーオレンジがおいしそうです。
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松陰先生が泊まった宿のようです。
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そしてお昼もとっくに過ぎて下田駅前の猟師料理のお店に入りました。
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やぁ〜今日はいい天気に恵まれて絶好の散策日和で、いい汗かきました。まずはビールで一杯〜
うん〜んまい
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昼のランチを注文。ここにきたからには金目鯛の煮付けを食べなくっちゃ〜
黄色いごはんはくちなしで色づけしためでたいご飯らしいです。
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最高〜猟師の煮付けです・・・
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大満足な下田プチ旅行でした。
4時半ごろのスーパービュー踊り子号で帰ります。
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下田いいところでした。まだ回りきれないところがたくさんあります。また絶対来ようと思います。
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パノラマビューの列車です。ガラガラで貸切状態。
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車窓からの眺めもホント癒されます〜
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熱海から東海道線で小田原まで、小田原からロマンスカーで町田。
た〜くさん電車に乗った日帰り旅行でした。楽しかったよぉ
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勝海舟の墓 洗足池

5月19日 仕事で東急池上線の洗足池に来ました。
ここにきたからには絶対行きたいところがあります。駅からすぐ中原街道沿いに洗足池はあります。
前々からここに行くチャンスがあったら寄ってみたいと思っていました。
洗足池は勝海舟のお墓があります。
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大森第六中学校 ここが昔の勝海舟の別邸があったところです。洗足池を望む景色のいい場所だったのでしょう。
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勝海舟と言えば私の中では龍馬もいた神戸海軍操練所を作った人というのが一番大きいですね。
西郷さんとの江戸城無血開城の会談を行った江戸の町を戦火から救った人というのも有名ですが。
別邸は残念ながら戦後火事で焼けた為。当時を偲ぶ物は説明の看板しかありません。明治維新後も海舟は西郷隆盛とこの別邸で歓談したそうです。
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洗足池
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ほどなく行くとありました。勝海舟夫妻のお墓。
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大田区の重要文化財。
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立派なお墓です。
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勝海舟が西郷隆盛の菩提を弔うために建てた留魂祠があります。
1868年(慶応4年)、西郷隆盛と勝海舟との会談によってし「江戸城の無血開城」が実現し、当時の江戸の街は戦火から救われた。しかし、隆盛は、1877年(明治10年)の西南戦争で、自らが創った明治新政府によって滅ぼされました。
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夏のような暑さの洗足池でした。
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九段を歩く

5月13日靖国神社、遊就館の帰りせっかく来たのだから、近場を散策して帰ろう〜
靖国を出てすぐ皇居のお堀牛ヶ淵方面を歩く。
歩道橋の上から銅像が見える。ちかくに行ってみると、品川弥二郎と書かれてある。
品川弥二郎といえば現在やっている大河ドラマ「花燃ゆ」にも登場している長州藩の志士ですね。
上野の西郷隆盛像や皇居前の楠木正成像の制作で知られる高村光雲の監督。原型作者は木山白雲、鋳造者は平塚駒次郎、建設者は西郷従道他2845名とされています。建設年月日は不明です。

品川弥二郎は長門の国、松木船津の長州藩足軽、品川弥市右衛門の長男として生まれました。15歳で松下村塾に入門。その後、長州藩士として尊皇攘夷運動で活躍。京都で倒幕運動に奔走しました。

維新後、明治3年(1870)戦争視察の命令で欧州に派遣。ついで留学を希望し、ロンドンに留まりました。その後も軍事を学ぶため兵部省からドイツに派遣され、次第に政治や経済に注目するようになりました。

駐独公使、農商務大輔(次官)などを歴任。明治17年(1884)子爵に。明治24年(1891)年第一次松方内閣の内務大臣となりました。松方の命で強力な選挙干渉を行い引責辞任を余儀なくされました。

晩年は、吉田松陰の遺志を継ぎ京都に尊攘堂を創設し、勤王志士の霊を祀るとともに、志士の史料を集めました。
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そしてそこから程近い場所に大山巌の銅像があります。
大山巌といえば西郷さんの従兄弟で日清、日露戦争で勝利した立役者ですね。
第二次世界大戦直後、多くの軍人の銅像が撤去される中、大山巌の銅像だけは撤去を免れた。日本を統治したマッカーサー元帥が、自室に大山巌の肖像画を飾っていたほどの大山ファンだったからだと言われている。
西郷さんが生きていたらこんな人物だったでしょう〜やはりどこかがっちりした体型が西郷さんを思わせます。
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西の丸公園の中を歩きます。
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田安門
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田安門からお堀を望む。
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【国指定重要文化財】
大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれています。田安門は、寛永13年(1636)に建てられたと考えられ、昭和38年には解体修理が行われました。北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。高麗門の扉の釣金具に製作に携わったと考えられる職人の名文があります。
田安門の辺りは,古くは「田安口」または「飯田口」ともいい,上州方面への道が通じていたといわれています。
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門名の由来は、門内には田安台といって,はじめ百姓地で田安大明神があったので門名に称としたといわれています。江戸城造営後は北丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となりました。有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にありました。
享保15年(1730)八代将軍吉宗の第二子宗武は,ここに一家を創立して田安家を興しました。宗武は、賀茂真淵に師事し、国学の造形には深いものがありした。宗武の子松平定信(白河楽翁)はここで生まれました。
現在田安門がある北の丸公園には,田安門から南北をつらぬくように西側一帯を田安家,東側一帯を清水家が所有していました。
現在は田安門から北の丸公園へ常時出入りできます。
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日本武道館
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北の丸公園内
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池もあります。
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そして東京国立近代美術館工芸館 旧近衛師団司令部庁舎
工芸館の建物は、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用したものです。この建物は、明治43(1910)年3月、陸軍技師田村鎮(やすし)の設計により、近衛師団司令部庁舎として建築されました。2階建煉瓦造で、正面中央の玄関部に小さな八角形の塔屋をのせ、両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式の建物です。丸の内や霞ヶ関の明治洋風煉瓦造の建物が急速に消滅していくなかで、官庁建築の旧規をよく残しており、日本人技術者が設計した現存する数少ない遺構として重要な文化財です。
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東京駅と同じ赤レンガ造りです。明治のにおいがしてきます。
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さぁ〜夕方になりました。帰りはお堀をあるいて竹橋駅から電車に乗り帰って来ました。
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靖国神社 遊就館

5月13日(水)夏を感じる快晴の天気
気になることがあって今日は靖国神社参拝と隣の遊就館(大東亜戦争終戦七十年特別展示)をみようと九段までやって来ました。
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大きな鳥居の先にある大村益次郎の銅像。このまっすぐな靖国神社までのアプローチはなぜか身が引き締まる。
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気になることとは・・・
先日仕事である中国人のお客様との話しがきっかけである。
その方はもうずいぶん長いこと日本に定住しているという。(20年以上)そして日本に帰化している。要するにもう日本人ということ・・・日本語に不自由することなくなんとも早口で日本語を話していました。
そこで私は日本に長いこと暮らして日本のイメージと日本人についてどういう感想をもっているか聞いてみました。その中国人は日本はすごく住みやすく清潔でいいところだと言っていました。そして日本人についても勤勉でまじめで礼儀正しく本当にいい人が多いと言っていました。その方は日本で仕事をしてたくさんの日本人顧客がいてこそ自分の生活が成り立っているのだからもちろんそう思うだろうなぁ・・とは思っていました。
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日本人に帰化するくらいだから本当に日本のことを良く知ってそうしたんだろうと・・わたしの勝手な思い込みはそこで終わってしまった・・・
そして私はこう続けた・・・
日本と中国、アジアでは一番近いお隣の国であるが、なぜ中国人は日本にそんなにまでの敵対心をもっているのでしょうか・・・と(こんなことは本当は話すべきではないことはわかっています。しかしこういう日本人になった方だったら少しはちがう考えをもっているのではないか・・)しかし甘かった・・
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そして悪いことにその人の出身は吉林省(昔の満州国だったところ)でした。そしてその人は延々と語り始めました。現在も父母は吉林省に住んでいて過去の日本が中国に対して犯した悲惨な出来事(満州国侵略と南京大虐殺など)の恨みを小さい頃から聞かされてきたというのです。30万人以上の中国人が日本兵によって虐殺されたという恨みは中国人の血が許さないというのでしょうか。だから現在安倍首相がとっている中国に屈しない態度がいささか気に入らないようだった。
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さざれ石(日本国歌の一節)
話は戻って・・・
私はその話しを聞いているうちに自分の中であなた方は中国教育によってそのような考えを植えつけられていまっている・・日本人には日本人の歴史認識があるのでということを・・(南京大虐殺など本当はなかった。最も中国を侵略したことは意味の取り違えだ)
しかしそれをその人にいくら言ってもきっと反発し怒り狂うだろうと。そう・・日中関係の討論会などをみてもいつもそうだ。中国は中国の固定観念しか聞く耳をもたないのである。私は黙った。
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今までも靖国問題、従軍慰安婦問題、尖閣諸島問題などいろいろな情報は調べてきたつもりで自分なりの考えは持っている。私は安倍首相が靖国神社に参拝するのは賛成だったし、先の戦争で日本のために命を落とした方に手を合わせるのは日本人として当たり前のことであると。そしてどうして日本が原爆まで落とされて敗戦し極東軍事裁判(東京裁判)であのような裁きを受けなくてはならなかったことに疑問を感じているひとりである。

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靖国神社の成り立ちについて調べてみた。
靖国神社の前身である東京招魂社は、大村益次郎の発案のもと明治天皇の命により、戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された。後に、1853年(嘉永6年)のアメリカ東インド艦隊の司令官ペリー来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。1877年(明治10年)の西南戦争後は、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなっている。

「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、政教分離や、第二次世界大戦前の日本について侵略だったか自衛だったかといった歴史認識、日本の支配及び日本軍が送られ犠牲者も出た近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見がある。終戦の日である8月15日の参拝は戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。

日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであった。

他方、戦争被害を受けたという意見の中国や韓国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に批判反発している もっとも、1979年4月にA級戦犯の合祀が公になってから1985年7月までの6年4月間、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘が首相就任中に計21回参拝をしているが、1985年8月に中曽根首相が参拝するまでは、非難はされていなかった。1985年の参拝に対しては、それに先立つ同年8月7日の朝日新聞が『靖国問題』を報道すると、一週間後の8月14日、中国政府が史上初めて公式に靖国神社の参拝への非難を表明した。

終戦から現在までの首相の靖国神社参拝回数
第43代 東久邇宮稔彦王 1回
第44代 幣原喜重郎 2回
第45代第48-51代 吉田茂 5回
第56-57代 岸信介 2回
第58-60代 池田勇人 5回 ​
第61-63代 佐藤栄作 11回
第64-65代 田中角栄 5回
第66代 三木武夫 3回
第67代 福田赳夫 4回
第68-69代 大平正芳 3回
第70代 鈴木善幸 9回
第71-73代 中曽根康弘 10回 ← 1985年から中国、韓国が非難しはじめた。
第82-83代 橋本龍太郎 1回
第87-89代 小泉純一郎 6回
第90代第96代 安倍晋三 1回
中国韓国が文句を言い始めたのは1985年頃から、中曽根さんが行き始めた頃からである。
昭和53年(1978年)に、所謂A級戦犯が靖国神社に合祀された後も、総理大臣は靖国神社を参拝し続けた。
昭和60年(1985年)頃まで、日本の首相は年に3〜4回ずつ靖国神社を参拝していたが、中国も韓国も全く問題視しなかった。
その合祀以降も、大平正芳首相や鈴木善幸首相などが靖国神社を参拝したが、中国も韓国も文句など言わなかった。
朝日新聞がなんらかの刺激をあたえたことは現在確かな事実となっている。そして中国自体日本を敵として扱い強固な姿勢をしめすことは国家にとってより団結を生む構造となっていることは政治評論家の間でも言われていることである。そして外交上の国益の政治的カードとなっていることも中国の巧みな政治戦術なのだ。
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過去に中国に対して先の戦争で侵した罪を謝罪してきた日本。何度謝ればいいんですか。
戦争の終結として1972年日中共同声明、1978年の日中平和友好条約等で戦争に関する清算は済んでいるのではないか・・・いつまでも戦争責任として企業への賠償責任訴訟などしてほしくないです。
そして未来永劫、平和な世界を築いていくのはアジアの大国日本と中国ではないでしょうか・・・
現在また大きな国際問題として南沙諸島を埋め立て実効支配している中国。なんとも国際法も関係ないのでしょうか・・・
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まだ言い尽くせないない中国への不満は数知れず・・・そして日本人の戦争自虐観もこの中国韓国の影響が多く残っていることも悲しい確かな事実なのです。
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遊就館で短編映画「私たちは忘れない」(50分)を見てきました。たくさんの命が日本を守りたいと捧げたことを本当に私たちは忘れてはいけないのです。日本人の誇りを捨ててはいけない。自虐史観はもう捨てよう・・
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人には思想があります。生きた環境、教育によって考えは変わっていきます。それを押し付けるつもりはありませんが世界中でたくさんの民族、人種が存在する中で最低限のお互いの尊重が平和を導いてくれるはずです。
怒り、憎しみからは何も生まれない・・・そんなことまた新たにを考えさせてくれた靖国、遊就館でした。

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江戸散歩 両国〜江戸東京博物館「大関ヶ原展」

木々の緑も少しづつ濃くなって今日もぽかぽか陽気〜
ついお散歩したくなっちゃいます
そんな4月22日(水)両国の江戸東京博物館で「大関ヶ原展」が開催されているとのこと、江戸散策もかねて両国へやってきました。両国の駅は力士さんの駅!さまざまな力士の展示がされています。
白鳳や武蔵丸関の写真が飾られています・・・
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203cmとあるのはあの曙関の身長です〜すごい大男ですよね
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駅を出ると道沿いに力士のモニュメントがたくさんあります。
さすが江戸時代から両国はお相撲の町なんですね。
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江戸東京博物館とは反対側を歩いて5分ほど、回向院があります。
回向院は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
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この起こりこそが「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として現在までも守られてきました。
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万霊塔の上に立つ聖観世音菩薩立像。
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海難供養塔。
そして余談ですがこの敷地内に鼠子像次郎吉のお墓があったようです。後で気がつきました
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そして、駅のマップに書いてあったので道なりに進むとなんと赤穂事件の吉良上野介の邸宅跡がありました。
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吉良邸は、浅野匠頭守による殿中刃傷事件の後の元禄14年(1701)9月3日に吉良上野介義央が当地を拝領して建設された吉良家の上屋敷で、坪数2,550坪ありました。当地で赤穂浪士による仇討ち事件が起こり、その名所を惜しんだ地元の両国3丁目町会有志会が発起人となったのがきっかけとなり、本所松坂町公園として残されています。
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旧本所松坂町(両国3丁目)吉良家上屋敷は広大で、東西73間(134m)、南北は34間(63m)であって、坪数2,550坪と記録されています。
吉良上野介が近藤登之介の屋敷跡を拝領したのが、元禄14年(1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが元禄16年2月4日ですから、吉良家の上屋敷となっていたのは、前後1年半に満たない短期間でした。
屋敷の表門は東側、今の両国小学校に面した方にあり、裏門は西側に位置し、東・西・南の三方は周囲に長屋があり、北の方だけ本多孫太郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていました。建坪は母屋が381坪、長屋は426坪です。
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現在、吉良邸跡として残る本所松坂町公園は、当時の76分の1にすぎませんが、地元両国3丁目町会有志会が発起人となって、邸内のいわゆる「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、昭和9年3月東京市に寄附し、これによって貴重な旧跡が維持されました。なお、区移管は昭和25年9月です。公園の周囲にある高家を表すなまこ壁の、長屋門を模した高さ2mのコンクリート壁と門とが、わずかに当時の模様を偲ばせます。
なお、毎年12月14日義士討入りの日には、地元義士会によって義士祭が、その日の午後には同じく吉良祭が盛大に行われています。
ちなみに、この敷地内に鎮座する松坂稲荷は、もと兼春稲荷と称し吉良邸内にあったもので、さらに古く、この地がまだ宅地開発される以前から、この周辺の土地に祀られていたものです。
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松坂稲荷大明神
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吉良上野介義央公。こんな顔をしていたのでしょうか・・
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みしるし洗いの井戸。これは、赤穂浪士が打ち落とした吉良の首を洗ったものらしい。
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八重桜も咲いていました。
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吉良まんじゅうを売っている和菓子屋さん。鬼平犯科帳のふるさとでもあるんだな・・・私も柏餅を買ってみました。
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両国の町もいい町ですね・・・少しゆくと芥川龍之介の碑がありました。幼児期から青年期までをこの両国で過ごした・・とかいてある。芥川龍之介もこのあたりで育ったのか・・
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その隣に両国小学校〜新一年生の帰りの時間、お迎えの親が並んで待っている。
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両国小学校のとなりに公園が・・・そこにはなんと勝海舟生誕の地という石碑が・・・
そしてびっくりなことにこの字は西郷隆盛(吉之助)書いたものらしい!!
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こんななにげないところで出会うとは・・感動だぁ〜
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そして江戸東京博物館にやってきました〜かなり大きな建物です。
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お昼を食べて2時すぎ〜入場者で混雑しています。
この展覧会は徳川家康没後400年を記念して開催されたものです。
家康の所蔵品もかなり多いですが徳川四天王や豊臣秀吉関連もたくさん展示されていました。
戦国時代に詳しくない私はちょっとだれがだれだかわからないところもありました。
一応東軍と西軍の武将の名前はしっているつもりでしたが・・・(おはずかしぃ・・)
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人の間をかき分けてみる感じでしたが、有名な関ヶ原合戦図屏風、家康朱印状、前田利家血判起請文、刀や兜、具足など貴重な重要文化財を見ることができてよかったです。
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帰りはロマンスカーでゆったり〜吉良邸前で買った柏餅(味噌餡)をいただきながら帰ってきました〜
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赤穂四十七士のお墓 泉岳寺へ〜

今日の休日もいい天気
今日は品川から程近い、赤穂浪士のお墓がある泉岳寺を訪れてみました
高輪中学、高校もここの門をくぐって入っていくようです。
今日は中間テストか・・・まだお昼前だというのに、かわいらしい男の子たちが門からでてきていました・・・
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この山門は天保3年(1832年)34世大道貞釣(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨蹟研究者であった大野約庵による書です。
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立派な門です。
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この銅像は、浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが、泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したものです。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。
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山門をくぐって内側からみた図。立派な松がそびえたっています。
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本堂。
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赤穂義士たちのお墓に早速行ってみましょう〜誰もいない静かなお寺ですね。
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浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。
ちょっと梅の木がずれてしまいました
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義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。
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お墓入り口にお線香一束100円で売っています。さぁ〜お墓参りしましょう
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だーれもいない。
赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されました。
ただし間新六の遺体は遺族が引き取っていきました。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑶泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、のち江戸に戻って自首しましたが赦され、麻布・曹渓寺で83才の天寿を全うしました。現在も曹渓寺に眠っています。
泉岳寺にある間新六の供養墓は他の義士の墓と一緒に建立されましたが、寺坂の墓は慶応4年(明治元年・1868年)6月に供養のために建てられたものです。
また、いわゆる47士の他に、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓があります。(明和4年(1767年)9月建立)
したがって泉岳寺の墓碑は48あります。
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お墓の配置図が書かれています。
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これが浅野内匠頭の墓
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浅野内匠頭夫人の墓。浅野内匠頭と並んで手前に位置している。
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そして浅野内匠頭の真横に大石蔵之助の墓。ふたり墓参りの人がきた。
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大石良雄とかいてある。
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堀部安兵衛の墓。
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12月14日命日にはここももっとにぎやかになるのだろうか・・・
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入り口近くには義士記念館もあります。ここはまた時間があるときにでも・・・
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さぁ〜山門の立派な松をみて次の場所に移りましょ〜
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今日はホントにいい天気!青空に松がまぶしいぃ〜
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三軒茶屋〜松陰神社

今日の休日も歴史お散歩いたしま〜す
松下村塾を主宰し、幕末・維新に活躍した多数の志士達を輩出した吉田松陰先生が祀られた神社です。
先週は井伊直弼の豪徳寺行きましたが、豪徳寺より目と鼻の先に松陰神社があります。何の因果か、安政の大獄で井伊直弼に処罰された松陰先生がこんなちかくに眠るとは・・・
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松陰先生について詳しくお知りになりたい方はこちらをどうぞ→吉田松陰.com
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松陰先生の銅像。本来なら萩の松陰神社に行ってみたいところだが・・・
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松陰先生は安政6年10月27日、安政の大獄に連座し江戸伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。その4年後の文久3年、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文、等によってこの世田谷若林の地に改葬されました。神社所在地一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところで大夫山と呼ばれていたそうです。
明治15年11月21日松陰先生門下の人々が相謀り、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り忠魂の鎮座するところとなりました。今日の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものです。
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石灯篭も多い。
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大木の根元に布袋様が・・・
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桂小五郎から送られた鳥居をくぐり松陰先生のお墓へ・・・
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以外と小さいです。正面がそうです。
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名は寅次郎と言いました。
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そしてもうひとつ見ておかなくては・・・そう松下村塾の建物。
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松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、安政3年(1856年)8月から安政5年(1858年)12月までのわずか2年余りに過ぎない。しかし、その短い期間に、松陰は自分の信念を塾生たちにぶつけ、しかし一方的に教えるのではなく、塾生たちと一緒になって問題を考えていった。講義は室内だけでなく、農作業を共にしながら行なわれるなど、心身両面の鍛錬に重点が置かれたという。

松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」と言った。また「学者になってはいけない。 実行しなければならない」とも言い、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説いた。脱藩や密航を試みるなど、実行に実行を重ねる松陰であったからこそ、若者達の心は強く揺さぶられ、惹き付けられていった。

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松陰の教育を受けた門下生達は、後に京都で志士として活動した者や、明治維新で新政府に関わる者など幕末・明治において大きな活躍を果たすことになる。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖など枚挙に暇がない

松陰は門下生達に行動を説く一方で、自ら行動することも止めなかった。幕府の老中・間部詮勝が朝廷を厳しく取り締まろうとしていると聞き、松陰は激怒。間部詮勝要撃計画を実行しようと萩に残る塾生に声をかけ要撃隊をつくり、藩には武器・弾薬の提供を願い出て、藩を驚かせた。

結果的にこの行動が、藩にとって危険なものとして松下村塾の閉鎖を命じられ松下村塾は閉鎖に追い込まれることとなり、松陰は再度、野山獄に入れられることになった。そして、その後、ついに幕府から松陰を江戸に送るようにとの命令が届いた
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松陰 辞世の句
      身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

私の命がたとえこの武蔵野の野で終えることになっても、自分の思想はここに留めておこう。

 この句は彼の著書「留心録」の冒頭に記されている。松蔭の無念さと同時に、尚も自分が倒れても、弟子たちは必ず革命を起こし、新たな日本を創ってくれるだろう、という期待と願いが伝わってくる。

 彼はあまりにも自分の理想に対して純粋すぎた。彼は最期の獄で取り調べに対しても一切弁解をしなかったばかりか、とうとうと自分の理想について述べ始めた。おそらくここでそのようなことをしなければ彼は遠島(島流し)程度で済んだといわれている。彼もそのことはわかっていたはずである。

 しかし彼はそうしなかった。彼は自分の理想を述べることでこの場で幕府の役人を動かし、やがては幕府内部からも革命を起こそうというきたいをもっていたふしがある。あまりに楽観主義者というか、行動主義者というか。彼は自分の理想に対して純粋すぎたのかもしれない。恐らくそれが彼の思想や行動力を生み出す原動力になり、同時に彼の命を縮める要因ともなったのであろう。
 彼の思想は松下村塾の弟子たちによって受け継がれる。松下村塾四天王、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一。しかしこの4人で維新の夜明けを見たものは一人もいない。皆、革命の過程でその若い命を散らしていったのだ。そして1868年、ついに明治新政府が誕生し、革命は一応達成される。しかしそれが彼の理想を実現したものなのかどうかはわからない。
(辞世の句ネット資料より)

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井伊直弼が眠る豪徳寺へ〜石臼挽き蕎麦 近江屋

さて今日の休日は歴史探索DAY〜〜
天気はイマイチですが、幕末の歴史人のひとり井伊直弼が眠る豪徳寺へやってきました。
思い立ったのは前日、最近3年前の大河ドラマ天障院「篤姫」のビデオを全巻見終わりまして、ますます幕末に燃えています
今日は電車の旅。もちろんカメラにリュックいい被写体をさがして歩きますよ〜
たまにゃん商店街だって〜〜〜
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お花屋さんの店頭は春らしい〜〜冬のサクラだって〜〜ドラマはみてないけど・・・
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世田谷線もかわいい電車ですね。。。鉄子にもなりそう〜〜
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そして豪徳寺駅から歩くこと7.8分ありました豪徳寺。
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側室の子として生まれ日陰者だった直弼が幕末の大老になり、勅許を待たずに日米修好通商条約の調印を行なったこと、。強引なまでの尊皇攘夷派の弾圧、そして安政の大獄。末路はドラマチックに生涯を閉じた。もしもこの条約に反対したら、当時の東洋情勢からして、日米は欧米諸国の餌食にされ、植民地化されていただろうし、軍備の劣る日本は、領土を奪われ、今日の日本歴史も大きく変わっていただろう。
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彼の前半の人生は、決して幸福とはいえない。大老に就任、国難に立ち向かい、“花の生涯”を飾ったのだ。
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静まり返った彦根藩井伊家の菩提寺である豪徳寺
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桜の季節はみごとであろう。
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なかなかいい色合いをみせている。
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しだれ桜もきれいだろうなぁ
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梅も咲きほころんでいる。
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招き猫の寺のよう。にゃんたま商店街とはここからきているのね。
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せたがや百景。
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さて井伊直弼のお墓まで行って見ましょう。
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ここから先が井伊家のお墓だ。
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入り口に何代目と記されている。直弼は北西側にあるようです。
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やはり普通の墓地と違って大きく区画が割られて敷地内は広々としているね。
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ここが井伊直弼のお墓です。
修復した新しめな石もありますが、戒名が書かれた石はその当時のままか・・・かすれて字が見えない。
ネットの写真でみていた後ろの大きな木も切り倒されていた。
幕末日本の将来を考え信念を全うした志しに手を合せます。
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龍馬もそうでしたが、暗殺される危険をしりつつも難題を乗り越えるには命をかけて貫くこと。
安政7年3月3日の雪の降る桜田門外を想像してみた・・・・
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桜田烈士の碑も直弼の墓の真後ろにあった。
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さぁ〜寒くなってきたね。〜歴史探索の街歩き、今日も満足しました
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目黒雅叙園 百段階段 坂本龍馬展

京都旅行から帰って龍馬熱も覚めたかと思いきや、今日は目黒雅叙園で開催されている百段階段と龍馬展をみにやってきました。というのも、夜から浜離宮朝日ホールでピアノの演奏会もあるため、ついでながらということで来てみました。JR目黒駅久々〜駅の旅行カウンターで割引チケットが販売されているとのこと。1500円が1200円になりました〜
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駅から坂を下って3分ほど・・・
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ありました、龍馬展×百段階段。紅葉もきれいですね
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さすが、立派な入り口です
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入ると左手に受付がありました。
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金屏風になにやら書簡が・・
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ガラスの向こうの滝の庭園はみごとです。
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龍馬と出逢う、時間旅行へと題した特別展です。
舞台は東京指定有形文化財「百段階段」。
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通路の日本画もみごとです。
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ここが百段階段。実際には撮影禁止なのでネットからのコピペです。
百段階段は通称で、かつて目黒雅叙園旧三号館にあたり、同園現存する唯一の木造建築です。
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晴れやかな宴が行われた7部屋を九十九段の長い階段廊下を繋いでいます。階段は厚さ5cmのケヤキ板を使用、階段で結ばれた各部屋は、それぞれ趣向が異なり、主に装飾を担当した画家の名前がつけられています。

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勝海舟が龍馬の死後、十五年忌祭に龍馬の跡取り坂本直へと送られた追悼詩。

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お龍が龍馬から送られた帯留めなど。真物も展示されていました。


そしてエントランスに飾られたイルミネーション。
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すっかりクリスマスムード。
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暗いところでも以外とよく撮れたかと思ってます。。
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そして夕方にかけてあるピアノの演奏会のため、大江戸線に乗り換え、築地市場前までやってきました。そこにはちょっと面白い建物があると聞いていたので行って見ました。日本近代建築125選に選ばれたという建築家黒川紀章建築の中銀カプセルタワービルです。
所在地:東京都中央区銀座 
設計/竣工:1970年‐1972年
建築面積:429.51m²
延床面積:3,091.23m²
鉄骨鉄筋コンクリート造 一部鉄骨造
地下1階 地上11階および13階

黒川の初期の代表作であると共に、メタボリズムの代表的な作品である。
それぞれの部屋の独立性が著しく高く、部屋(カプセル)ごとに交換することも、技術的には可能な設計になっているが、実際には、2010年に至るまで一度も交換されたことはない。
鳥の巣箱を積み重ねたような(日本国外からの見学者はドラム式の「洗濯機を積み重ねたような」と表現する)特異な外観は、ユニット製のマンション[1]であることの機能をダイレクトに表現し、そのメタボリズムの設計思想を明確に表現したデザイン性が高く評価される一方で、居住性に関しては、洗濯機もおけない、無駄なスペースが多い、雨漏りがする、冷蔵庫が作りつけであるなどの、否定的な声もある。
特徴的な2本の尖塔の内部には、室外機などの設備が収められている。(ウェキより)

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入り口です。
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斬新かつユニークなこの建物、建替えが問題になっていますが、壊されるまえにみれてよかったです。

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EXPO70の旗のマークが・・・なんともこの時代の未来を考えた建物を感じさせます。
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そして浜離宮朝日ホールで知り合いのピアノ演奏会をきき、夜9時過ぎ、今日からライトアップされたという、表参道を通って帰ってきました

今年は「90歳の表参道」というテーマだそうで、90万個のLEDで飾ったそうです。こういう風景をみるとやっぱり今年ももう終わりなんだと感じます
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歩道橋の上から撮ろうとしましたが、歩行禁止になってました
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12月もあっという間に終わりそう〜
今年の反省でもしよっかなぁ・・・
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帰り道車の中から撮った赤プリのクリスマスツリーのネオンもかわいかった〜
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 皇居 東御苑 

龍馬の裏書きも見終えて、せっかくだから東御苑内をお散歩しましょう〜
尚蔵館から少し奥へ行くと同心番所があります。
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江戸城に入るには何箇所かの番所のチェックを通って入ります。
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百人番所は最大の検問所。
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天気も抜群〜今は彼岸花が見ごろです。
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秋空のもとお散歩も気持ちい〜汐見坂にきました。
汐見坂。かつては日比谷の入江の海がよく見えたことからこの名がついたよう・・・
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汐見坂を登りきると大きな広場にでます。
そしてここが天守台跡。
江戸城は3代将軍家光のときに完成しましたが19年後の江戸の大火で焼失してから再建されることはありませんでした。
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江戸城本丸御殿跡、大奥を見渡す。徳川将軍家とそこに仕える多くの人々が暮らした場所。江戸の歴史に思いを馳せる・・・
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遠くにビル街が見えてきた。
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天守台だけでも結構遠くまで見渡せる・・・
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頂上はこんな感じ・・・もうちょっと何かあってもいいかも・・・
でもどうして江戸城たるものが再建されないんだろう・・・あれだけの徳川幕府だよ〜
何かわけがあるはず・・そこはもうちょっと調べてみる価値があるかもね。
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ふむふむ・・江戸城本丸御殿の説明。
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そして本丸御殿跡内を散策〜〜
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火災や地震などの非常時に備えて、調度品などを納めていたと言われる石室です。
もうひとつは江戸城につながる秘密の抜け道だったとか・・
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どんどん奥へ・・なにやら松の大廊下跡があるようだ・・・
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忠臣蔵の発端になった場所です。
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はとバスツアーなどではガイドスポットでいろいろ説明してくれるんでしょうね。
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秋晴れのさわやかな歴史に触れた一日でした

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